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スタジオジブリ宮崎駿監督の引退会見、一問一答・全文(2/2)

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●監督になってよかったと思ったことは一度もありません、アニメーターは何度かある

 

――(フランス記者)フランスはいかがでしょうか。

 

 

 

宮崎監督:正直に言いますね。イタリア料理のほうが口に合います(笑)。クリスマスにたまたまフランスに用事があって行ったときに、どこのレストランに入ってもフォアグラが出てくるんです。これが辛かったなって記憶があります(笑)。それが答えになっていません? あ、ルーブルはよかったですよ。いいところはいっぱいあります。ありますけど、料理はイタリアのほうが好きでした。あの、そんな大した問題と思わないでください(笑)。フランスの友人にイタリアの飛行艇じゃなくてフランスの飛行艇の映画を作れって言われたんですけど、いやーアドリア海に沈んでいったからフランスの飛行艇はないだろうという話をした記憶はありますけど。フランスがポール・グリモーっていう、『王と鳥』っていう名前になってますが、昔は『やぶにらみの暴君』っていう形で、反戦映画じゃなかったけど、1950年代に公開されて甚大な影響を与えたんです。特に僕よりも5つ上の高畑監督の世代には圧倒的な影響を与えたんです。僕はそれは少しも忘れていません。今見ても志とか世界の作り方を見ても本当に感動します。いくつかの作品がきっかけになって自分はアニメーターをやっていこうと決めたわけですが、そのときにフランスで作られた映画のほうがはるかに大きな影響を与えてます。イタリアで作られた作品もあるんですが、それを見てアニメーションをやろうと思ったわけではありません。

 

 

 

――1963年に東映動画に入社されてちょうど半世紀。振り返って一番辛かったこと、アニメを作って一番よかったと思うことは。

 

 

 

宮崎監督:辛かったのはスケジュールで、どの作品も辛かったです。終わりまでわかっている作品は作ったことがないんです。つまりこうやって映画が収まっていくというか、見通しがないまま入る作品ばっかりだったので、それは毎回ものすごく辛かったです。最後まで見通せる作品は僕はやらなくてもいいと勝手に思い込んで、企画を立てたりシナリオを書いたりしました。絵コンテという作業があるんですが、月刊誌みたいな感じで絵コンテを出す。スタッフはこの映画がどこにたどり着くのかぜんぜんわからないままやってるんです。よくまぁ我慢してやってたなと思うんですが、そういうことが自分にとっては一番しんどかったことです。でも2年とか1年半とかいう時間の間に考えることが自分にとっては意味がありました。同時に上がってくるカットを見て、ああではないこうではないといじくっていく過程で、前よりも映画の内容についての自分の理解が深まることも事実なんで、それによってその先が考えられるような、あまり生産性には寄与しない方式でやりましたけど、それは辛いんですよね(笑)。とうとうとスタジオにやってくるという日々になってしまうんですが、50年のうちに何年そうだったのかわかりませんが、そういう仕事でした。

 

 

 

監督になってよかったと思ったことは一度もありませんけど、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かあります。アニメーターっていうのはなんでもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、光の差し方がうまくいったとか、そういうことで2、3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督は、最後に判決を待たなきゃいけないでしょ。これは胃に良くないんです。ですからアニメーターは最後までやってたつもりでしたけど、アニメーターという職業は自分に合っているいい職業だったと思っています。

 

 

 

――それでも監督をずっとやってこられたのは?

 

 

 

宮崎監督:簡単な理由でして、高畑勲と会社が組ませたんじゃないんです。僕らは労働組合の事務所で出会ってずいぶん長いこと話をしました。その結果、一緒に仕事をやるまでにどれほど話をしたかわからないくらいありとあらゆることについて話をしてきました。最初に組んでやった仕事は、自分がそれなりの力を持って彼と一緒にできたのは『ハイジ』が最初だったと思うんですけど、そのときにまったく打ち合わせが必要ない人間になってたんです。双方に。こういうものをやるって出した途端に、何考えてるかわかるって人間になっちゃったんです。ですから監督というのはスケジュールが遅れると会社に呼び出されて怒られる。高畑勲は始末書をいくらでも書いてましたけど、そういうのを見るにつけ僕は監督はやりたくないと。やる必要がないと。僕は映画の方をやってればいいんだと思ってました。まして音楽や何やら缶やらは修行もしなければ何もやらないという人間でしたから、ある時期がきてお前一人で演出をやれと言われたときは本当に途方に暮れたんです。音楽家と打ち合わせなんて何を打ち合わせしていいかわからない。よろしくって言うしかない。しかもこのストーリーはどうなっていくんですかって、僕もわかりませんって言うしかないんで。

 

 

 

つまり初めから監督や演出をやろうと思った人間じゃなかったんです。それがやったんで、途中高畑監督に助けてもらったこともありましたけど、その戸惑いは『風立ちぬ』までずっと引きずってやってきたと今でも思ってます。音楽の打ち合わせでこれどうですかって聞かされても、どこかで聞いたことあるなとか、それくらいのことしか思いつかない(笑)。逆にこのCDをとても気に入ってるんですけど、これでいきませんかと。"これワグナーじゃないですか"(と言われる)とか、そういうバカな話はいくらでもあるんですけど、本当にそういう意味では映画の演出をやろうと思ってやってきたパクさんの修行とですね、絵を描けばいいんだって思ってた僕の修行はぜんぜん違うものだったんです。それで監督やってる間も僕はアニメーターとしてやりましたので、多くの助けやとんちんかんがいっぱいあったと思うんですけど、それについてはプロデューサーがずいぶん補佐してくれました。つまり、テレビも見ない、映画も見ない人間にとってはどういうタレントがいるのか何も知らないんです。すぐ忘れるんです。そういうチームというか、腐れ縁があったおかげでやってこれたんだと思っています。決然と立って一人で孤高を保っているというそういう監督ではなかったです。わからないものはわからないという、そういう人間として最後までやれたんだと思います。

 

 

 

――『風立ちぬ』について。長編最後の場面のセリフを「あなたきて」から「あなた生きて」に変えたとプロデューサーが以前話されていました。宮崎監督が考えていたものとは違うものになったと思いますが、長編最後の作品として悔いのないものになったのか。また今変えたことについてどう思っていますか。

 

 

 

宮崎監督:風立ちぬの最後については本当に煩悶しましたが、なぜ煩悶したかというと、とにかく絵コンテを上げないと、制作デスクのさんきちという女の子がいるんですが、本当に恐ろしいんです(笑)。他のスタッフと話してると床に"10分にしてください"って貼ってあるとかね。机の中にいろんな叱咤激励が貼ってありまして、そんなことはどうでもいいんですけど(笑)。とにかく絵コンテを形にしないことにどうにもならないので、とにかく形にしようと形にしたのが追い詰められた実態です。それでやっぱりこれはダメだなと思いながらその時間に絵が変えられなくてもセリフは変えられますから、自分で冷静になって仕切り直ししたんです。こんなこと話してもしょうがないんですが、最後の草原はいったいどこなんだろう、これは煉獄であると仮説を立てたんです。ということはカプローニも堀越二郎も亡くなってそこで再会してるんだってそういう風に思ったんです。それから奈緒子はベアトリーチェだ、だから迷わないでこっちに行きなさいって言う役として出てくるんだって、言い始めたら自分でこんがらがりまして、それでやめたんですよね。やめたことによってすっきりしたんです。神曲なんて一生懸命読むからいけないんですよね(笑)。

 

 

 

――自分の作りたい世界観は表現できたのか、達成感はありますか? もし悔いが残っているとしたらどこですか?

 

 

 

宮崎監督:その総括はしていません。自分が手抜きしたという感覚があったら辛いだろうと思うんですけど、とにかくたどり着けるところまではたどり着いたという風にいつでも思ってましたから、終わった後はその映画は見ませんでした。ダメなところはわかってるし、それが直ってることもないので、振り向かないようにやってます。同じことはしないつもりで、ということなんですが。……続きを読む

 

 

 

●失礼ですがタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、そのギャップに愕然

 

――スタジオジブリ立ち上げが40代半ば。日本社会をどう見てきましたか。どんな70代にしたいですか。

 

 

 

宮崎監督:ジブリを作ったときのいろんなことを思い出すと、浮かれ騒いでた時代だったと思います。経済大国になって日本はすごいんだ、ジャパンイズナンバーワンとかね。そういうことが言われていた時代だったと思います。それについて僕はかなり頭にきていました。頭にきていないと『ナウシカ』なんか作りません。でもその『ナウシカ』、『ラピュタ』、『トトロ』、『魔女の宅急便』っていうのは基本的に経済は勝手に賑やかだけど心の方はどうなんだとかね、そういうことをめぐって作っていたんです。でも1989年にソ連が崩壊して日本のバブルもはじけていきます。その過程で戦争が起こらないと思っていたユーゴスラビアが――僕が勝手に起こらないと思っていただけなんですけど――内戦状態になるとか、歴史が動き始めました。今まで自分たちが作ってきた作品の延長上にこれは作れないという時期がきたんです。そのときに、体をかわすように豚を主人公にしたり、高畑監督はたぬきを主人公にしたりして切り抜けたんです。切り抜けたって言うと変ですけど(笑)。たぶんそうです。それから長い下降期に入ったんです。失われた10年は失われた20年になり、半藤一利さんは失われた45年になるだろうと予言しています。たぶんそうなるんじゃないかと。

 

 

 

そうすると僕らのスタジオというのは、経済が上り調子のこうなっているところでバブルが崩壊する、ここのところで引っかかっていたんです。それがジブリのイメージを作ったんです。その後じたばたしながら『もののけ姫』を作ったりいろいろやってきましたけど、僕の『風立ちぬ』までずるずると下がりながら、これはどこにいくんだろうと思いつつ作った作品だと思います。ただこのずるずるずるが長くなりすぎると、最初に引っかかっていた引っかかりが持ちこたえられなってドロっていく可能性があるところまできてるんじゃないか。抽象的な言い方で申し訳ないんですが、僕の70っていうのは半藤一利さんとお話したときによくわかったんですが、ずるずるずると落ちていくときに自分の友人だけじゃなくて若い一緒にやってきたスタッフや隣の保育園の生きてるところ自分が横にいるわけですから、なるべく背筋を伸ばして半藤さんのようにきちんと生きなければいけないと思ってますけど。そういうことだと思います。

 

 

 

――(中国記者)将来、ジブリの作品を中国で上映する可能性は?

 

 

 

星野社長:御存知の通り、中国は外国映画の制度があってその本数が規制緩和で増えているという状況はよくわかっているんですが、まだまだそういう面では本格的に映画作品、日本の作品を上映していく流れができていないんです。前向きに考えてはいますけど、現時点ではジブリ作品はまだ上映されている状況にはありません。

 

 

 

――宮崎監督が好きな作品や監督などは?

 

 

 

宮崎監督:僕は今の作品をぜんぜん見ていないので、ノルシュテインやピクサーのジョン・ラスターは友人です。それからイギリスにいる連中の友人です。みんなややこしいところでいろいろやっているという意味で友人です。競争相手じゃないといつも思っています。今の映画見てないんです本当に。高畑監督の映画は見ることになると思いますが、まだのぞくのは失礼だからのぞかないようにしています。

 

 

 

――『風立ちぬ』は庵野監督やアルパートさんなど縁の深いキャスティングです。そこに何か思いは?

 

 

 

宮崎監督:その渦中にいる方は気づかないと思います。つまり毎日テレビを見ているとか、日本の映画を見ているとか、吹き替えのものを見ているとか、そういう人たちは気がつかないと思うんです。でも僕は東京と埼玉を往復して暮らしてますけど、さっきも言いましたように映画もテレビも見てないんです。自分の記憶に蘇ってくるのは、特に『風立ちぬ』をやってる間中、蘇ってきたのはモノクロ時代の日本の映画です。昭和30年以前の作品ですね。そこで暗い電気の下で生きるのに大変な思いをしてる若者や男女が出てくる映画ばかり見ていたので、そういう記憶が蘇るんです。それと今の、失礼ですがタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、そのギャップに愕然とします。なんという存在感のなさだろうと思います。庵野もアルパートさんも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、そのほうが僕にとって映画にぴったりすると思いました。でも他の人がダメだったとは思わないです。奈緒子をやってくださった人なんかはみるみるうちに本当に奈緒子になってしまって、本当に愕然としました。そういう意味で非常に、この『風立ちぬ』をドルビーサウンドだけどドルビーではないモノにしてしまう。周りから音は出さない。それからガヤは20人も30人も集めてやるんじゃなくて、音響監督は2人でするんだと言ってます。つまり昔の映画はそこで喋っているところにしかマイクは向けられませんから、どんなにいろんな人間が口を動かしてしゃべっていてもそれは映像には出てこなかったんです。その方が世界は正しいんです。僕はそう思うんです。

 

 

 

それが24チャンネルになったらあっちにも声をつけろこっちにも声をつけろ、それを全体にばらまくって結果ですね。情報力は増えてるけど、表現のポイントはものすごくぼんやりしたものになっているんだと思います。それで思い切ってこれは美術館の短編作品をいくつかやっていくうちに、これでいけるんじゃないかと思ったんですけど、プロデューサーがまったくためらわずにそれでいこうと言ってくれたのが嬉しかったですね。音響監督もまさに同じ問題意識を共有できていてそれができた。こういうことってめったに起こらないと僕は思います。これもうれしいことでしたが、いろんなポジションの責任者たちが色だとか背景だとか動画のチェックだとか、いろんなセクション、制作デスクも音楽の久石さんも、とても円満な気持ちで終えたんです。こういうことは初めてでした。もっととんがってギスギスした心を残しながら終わったものなんですが、20年ぶり30年ぶりのスタッフも何人も参加してくれて、そういうことも含めて映画を作る体験としては非常にまれないい体験として終われたので、本当に運が良かったと思っています。

 

 

 

――(香港記者)5年前に一度個別インタビューしました。今がずいぶん痩せている気がして。失礼かもしれませんが、監督の今の健康状態はいかがですか?

 

 

 

宮崎監督:今僕は正確に言うと63.2kgです。僕は50年前にアニメーターになったとき57kgでした。それが60kg超えたのは結婚したせいなんですけど、つまり三度飯を食うようになってからです。一時は70kgを超えました。そのころの自分の写真を見ると醜い豚のようだと思って辛いです(笑)。映画を作るために体調を整える必要がありますから、外食をやめました。朝ごはんをしっかり食べて、昼ごはんは家内の作った弁当を持ってきて食べて、夜は帰ってから食べますけど、ご飯は食べないでおかずだけ食べるようにしました。別にきつくないことがわかったんです、それで。そしたらこういう体重になったんです。これはだから女房の協力のおかげなのか陰謀なのかわかりませんけど、これでいいんだと思ってます。

 

 

 

僕は最後57kgになって死ねるといいなと思ってます。スタートの体重になって死ねりゃいいと思ってます(笑)。健康はいろいろ問題があります。ありますけど、とても心配してくださる方々がいて、よってたかって何かやらされますので、しょうがないからそれに従ってやっていこうと思ってますから、なんとかなるんじゃないかと思います。映画一本作るとよれよれになります。どんどん歩くとだいたい体調が整ってくるんですけど、この夏はものすごく暑くて上高地行っても暑かったんですよ。僕は呪われてるとおもったんですけど、まだ歩き方が足りないんです。もうちょっと歩けばもう少し元気になると思います。……続きを読む

 

 

 

●ロバート・ウェストールの作品には考えなければいけないことが充満している

 

――『熱風』を通じて憲法改正反対を訴えた理由は? また日本のディズニーと称されることについてディズニー出身の星野社長はどう考えますか。

 

 

 

宮崎監督:自分の思っていることを『熱風』から取材を受けて率直にしゃべりました。もう少しちゃんと考えてきちんと喋ればよかったんですけど、別に訂正する気も何もありません。発信し続けるかといわれても僕は文化人じゃありませんので、その範囲にとどめておこうと思います。

 

 

 

星野社長:日本のディズニーという呼ばれ方は別に監督がしているわけでは一切無く、2008年に公の場で同じ質問が外国の特派員からあったときに答えているんですが、「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーであった。自分の場合はプロデューサーがいると。ウォルト・ディズニーは大変優秀な人材に恵まれていた。自分はディズニーではない」と仰っていました。私もディズニーには20年近くいましたし、ディズニーの歴史とか一生懸命勉強する中でぜんぜん違うなと感じています。そういう面では日本のディズニーというほどではないんじゃないかなと。

 

 

 

――『熱風』の動機について。

 

 

 

宮崎監督:鈴木プロデューサーが中日新聞で憲法について語ったんですよ。そしたら鈴木さんのもとにいろいろネットで脅迫が届くようになったと。それを聞いて鈴木さんに冗談でしょうけども、電車に乗るとぶすっとやられるかもしれないというふうな話があって、これで鈴木さんが腹を刺されてるのにこっちが知らん顔してるわけにもいかないから僕も発言しよう、高畑監督もついでに発言してもらって3人いれば的が定まらないだろうと(笑)。それが本当のところです。本当に脅迫した人は捕まったらしいですけど、詳細はわかりません。

 

 

 

――作品の中で「力を尽くして生きろ。持ち時間は10年」という言葉がありますが、監督が振り返って思い当たる10年はどの時点でしょうか。この先10年はどういうふうな10年になってほしいか。

 

 

 

宮崎監督:僕の尊敬している堀田善衛さんという作家が、最晩年にエッセイで旧約聖書の伝道の書というのを「空の空なるかな」と書いてくださったんです。それの中に「汝の手に堪うることは力を尽くしてこれをなせ」という言葉があるんです。非常に優れたわかりやすく、僕は堀田善衛さんが書いてくださると、"頭悪いからお前のためにもう一回書いてあげるから"という感じで描かれてある感じがして、その本はずっと私の手元にあります。10年というのは僕が考えたわけではなくて、絵を描く仕事をやると38歳くらいにだいたい限界がまずきて、そこで死ぬやつが多いから気をつけろと僕は言われた。自分の絵の先生です。それからだいたい10年くらいなんだなと思った。

 

 

 

僕は18歳くらいから絵の修行を始めましたので、そういうことをぼんやり思ってつい10年と言ったんですが、実際に監督になる前にアニメーションというのは世界の秘密を覗き見ることだと。風や人の動きやいろんな表情や眼差し、体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかった途端に自分の選んだ仕事が非常に奥深くてやるに値する仕事だと思った時期があるんですね。そのうちに演出やらなきゃいけないといろんなことが起こってだんだんややこしくなるんですが、その10年はなんとなく思い当たります。そのときは本当に自分は一生懸命やっていたと、まぁ今さらいってもしょうがないんですけど。これからの10年に関してはあっという間に終わるだろうと思ってます。それはあっという間に終わります。だって美術館作ってから10年以上たってるんですよ。ついこないだ作ったのにと思っているのに。だからこれからさらに早いだろうと思うんです。ですからそれが私の考えです。

 

 

 

――奥様に引退をどのような言葉で伝えましたか? 奥様の反応は? また、2013年の今の世の中をどのように見ていますか?

 

 

 

宮崎監督:家内にはこういう引退の話をしたという風に言いました。お弁当は今後もよろしくお願いしますと言って、"フンッ"と言われましたけども(笑)。常日頃からこの歳になってまだ毎日弁当を作ってる人はいないと言われておりますので、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いしますと。外食は向かないように改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行ってたラーメン屋に行ったらあまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄いものを食わされるようになったんですね。そんな話はどうでもいいんですけど。

 

 

 

僕が自分の好きなイギリスの児童文学作家でロバート・ウェストールという男がいまして、この人が描いたいくつかの作品の中に本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか。その中でこんなセリフがあるんです。「君はこの世に生きていくには気立てが良すぎる」。少しも褒め言葉じゃないんです。そんな形では生きてはいけないぞといってる言葉なんですけど、それは本当に胸打たれました。つまり僕が発信してるんじゃなくて僕はいっぱいいろんなものを受け取っているんだと思います。多くの読み物とか昔見た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し繰り返しこの世は生きるに値するんだと言い伝え、本当かなと思いつつ死んでいったんじゃないかというふうに、それを僕も受け継いでいるんだと思ってます。……続きを読む

 

 

 

●もう二度とこういうことはないと思いますので

 

――引退発表の場所とタイミングが「ヴェネツィア映画祭」になった理由は?

 

 

 

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアでコンペ、出品要請、これかなり直前のことだったんです。社内で発表し、引退の公式の発表をするっていうスケジュールは前から決めていたんですけどね、そこに偶然ヴェネツィアのことが入ってきたんですよ。僕と星野のほうで相談しまして、宮さんには外国の友人が多いじゃないですか。そしたらヴェネツィアっていうところで発表すれば、言葉を選ばらなきゃいけないんですけど、一度に発表できるなと、そういう風に考えたんですよ(笑)。もともとね、こうも考えていたんです。まず引退のことを発表してその後記者会見をやる。このほうが混乱が少ないだろうと。当初は東京でやるつもりでした。ただちょうどヴェネツィアが重なったものですから、そこで発表すればいろんな手続きが減らすことができるっていうただそれだけのことでした。

 

 

 

宮崎監督:「ヴェネツィア映画祭」に参加するって正式に鈴木さんの口から聞いたのは今日が初めてです。"えっ"て星野さんが言ってるとか、ああそうなんだってそういう風に答えまして、これはまぁプロデューサーの言う通りにするしかありませんでした。

 

 

 

――富山出身の堀田善衛ですが、集大成になった『風立ちぬ』に堀田善衛から引き継いだようなメッセージのようなものは?

 

 

 

宮崎監督:自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんですね。何かこっちじゃなきゃいけないと思ってそっちに進んでいくっていうのは何か意味があるんだろうけど、自分の意識でつかまえられないんです。つかまえられることに入っていくとたいていろくでもないところにいくんで、自分でよくわからないところに入っていかざるをえないんです。映画って最後にふろしきを閉じなきゃいけませんから。未完で終われるならこんな楽なことはないんですけど。いくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残りの秒数も減っていくんですよね。それが実態でして、セリフとして生きねばとかいうことがあったから、多分これは鈴木さんが『ナウシカ』の最後の言葉を引っ張りだしてきてポスターに僕が描いた『風立ちぬ』という言葉よりも大きく(笑)。これは鈴木さんが番張ってるなと思ったんですけど(笑)。僕が生きねばと叫んでいるように思われてますけど、僕は叫んでおりません(笑)。そういうことも含めて宣伝をどういう風にやるか、どういう風に全国に展開していくかは鈴木さんの仕事として死に物狂いでやってますから、僕はそれを全部任せるしかありません。というわけでいつのまにかヴェネツィアに人が行ってるっていう。その前になんとか映画祭にパクさんと二人で出ませんかとか言われて。カンヌ映画祭があるとか言われて勘弁して下さいとかあって。ヴェネツィアにいくかは何も聞かれなかったんですけど。

 

 

 

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアに関しては宮さんコメント出してますよ。リド島が大好きって。

 

 

 

宮崎監督:あ……僕はリド島が好きです。カプローニにとっては孫ですけど、その人がたまたま『紅の豚』を見て、自分のおじいさんさんがやっていた社史、飛行機の図面というか、わかりやすく構造図に変えたものが大きな本で、日本に1冊しかないと思いますけど、突然イタリアから送ってきて、いるんならやるぞと。ありがたくいただきますと返事を書きましたけど。それで僕は写真で見た変な飛行機としか思ってなかったものの中の構造を見ることができたんですよ。ちょっと胸を打たれましてね。技術水準はドイツやアメリカに比べるとはるかに原始的なんですけど、構築しようとしたものはローマ人が考えてるようなことをやってると思ったんです。カプローニという設計者はルネッサンスの人だと思うと非常に理解できて、つまり経済的批判がないところで航空会社をやっていくためには相当張ったりもホラも吹かなければならない。その結果作った飛行機が航空史に残っていたりすることがわかって、とても好きになったんです。そういうことも今度の映画の引き金になってますが、たまりたまったものでできているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうとあまり思ったことがありません。突然送られてきた本1冊とか、随分前ですよね、いつの間にか材料になっていくということだと思います。

 

 

 

――堀田善衛とはどんな存在ですか?

 

 

 

宮崎監督:『紅の豚』をやる前なんかも世界情勢をどんな風に読むのかわからなくなっているうちに、堀田善衛さんってそういうときにサッと短いエッセイだけど、描いたものが届くんですよ。それを読むと自分がどこかに向かって進んでいるつもりなんだけど、どこへ行っているんだかわからなくなるような時期があるときに見ると、よく堀田善衛さんという人はぶれずに歴史の中に立っていました。見事なものでした。それで自分の位置がわかるということが何度もあったんです。本当に堀田善衛さんが描いた国家はやがてなくなるだろうとかね、そういうことがそのときの自分にはどれほど助けになったかと思うと、大恩人の一人だと今でも思っています。

 

 

 

――初期の頃の作品は2年、3年感覚で発表していたが、今回は5年ということで、年齢によるもの以外に創作の試行錯誤など時間がかかる要因がありましたか?

 

 

 

宮崎監督:1年間隔で作っていたこともあります。最初の『ナウシカ』も、『ラピュタ』も『トトロ』も『魔女の宅急便』も、それまで演出やる前に手に入れていたいろんな材料がたまってまして、出口があったらばっと出て行く状態にあったんです。その後はさぁ何を作るか探さなきゃいけないというそういう時代になったからだんだん時間がかかるようになったんだと思います。あとは最初は『カリオストロの城』は4カ月半で作りました。寝る時間を抑えてでもなんとかもつというギリギリまでやると4カ月半でできたんですが、そのときはスタッフ全体も若くて同時に長編アニメーションをやる機会は障害に一回あるかないかみたいなそういうアニメーターたちのむねがいて、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理です。歳もとるし、世帯もできるし、私を選ぶのか仕事を選ぶのかみたいなことを言われる人間がどんどん増えてくるっていう。今度の映画で両方選んだ堀越二郎を描きましたけど、これは面当てではありません(笑)。

 

 

 

そういうわけでどうしても時間がかかるようになったんです。同時に自分が一日12時間机に向かっても耐えられた状態ではなくなりましたから。実際机に向かっている時間はもう7時間が限度だと思うんですね。あとは休んでるかおしゃべりしてるか飯を食ってるかね。打ち合わせとか、これをああしろとかこうしろとかは僕にとっては仕事じゃないんですよ。それは余計なことで、机の上に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間とれるかっていう。それはね、この年齢になりますともうどうにもならなくなる瞬間が何度もくるっていうね。その結果、何をやるかっていいますと、鉛筆をパッと置いたらそのまま帰っちゃう。片付けて帰るとか、この仕事は今日でケリをつけるっていうのは一切あきらめたんです。やりっぱなしです。放り出したまま帰るということをやって、それでももう限界ギリギリでしたから。これ以上続けるのは無理だと。それを他の人にやらせるべきだということは僕の仕事のやり方を理解できない人のやり方ですから、それは聞いても仕方がないんです。できるならとっくの昔にそうしてますから。5年かかったといいますけど、その間にどういう作品をやるかっていうのは方針を決めてスタッフを決めて、それに向かってシナリオを描くということをやってます。やってますが、『風立ちぬ』は5年かかったんです。『風立ちぬ』は、あとどういう風に生きるかはまさに今の日本の問題で、この前ある青年が訪ねてきて、「映画の最後で丘をカプローニと下っていきますけど、その先に何が待っているかと思うと本当に恐ろしい思いで見ました」というびっくりするような感想だったんですけど、それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれた証拠だろうと思ってそれはそれで納得しましたが、そういうところに僕らはいるんだということだけはよくわかったと思います。

 

 

 

宮崎監督:こんなにたくさんの方がみえると思いませんでした。本当に長い間、いろいろお世話になりました。もう二度とこういうことはないと思いますので。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし (マイナビニュース) - Yahoo!ニュース

当然まただろうと思われているんですけど、今回は本気です 9月6日、スタジオジブリは都内で宮崎駿監督の引退会見を行った。会見には宮崎駿監督のほか、鈴木敏夫プロデューサー、星野康二社長が出席し、約1時間半にわたって記者からの質問に応じた。当日は国内外から約600名の記者、70台のテレビカメラが集まるなど、注目度の高さを伺わせる会見となった。 今回の会見は、9月1日(現地時間)にヴェネチア国際映画祭で発表された宮崎監督引退の発表を受けて開催されたもの。『風立ちぬ』を最後に長編アニメーション制作から引退するという突然の発表に、日本はもちろん世界中から驚きの声が上がっていた。 ...

 

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