読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ひなぴし

会いたくて、会いたくてふるえるシンドローム。

メレブは呪文を唱えた「あまぞんやすすぎるあまぞんやすすぎるあまぞんやすすぎるあまぞんやすすぎるあまぞんやすすぎるあまぞんやすすぎるいやまじで

もし北条氏直が豊臣政権下で大名として残っていたら徳川家の天下はなかったかもしれない

日本史 歴史

スポンサーリンク

 

北条氏政・氏直は、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ
小田原攻めにより滅ぼされた親子として有名です。
 
この時はすでに家督は氏直に譲られていたと言われていますが、父親は健在なわけで、実質的には氏政が実権を握っていたのかなと思われます。(ある時期から氏政は口出ししなくなったという話もあるようですが)
 
氏政さんといえば、その父・北条氏康さんが氏政の飯の食い方をみて嘆いていたという逸話があります。
 
ご飯を食べる際に湯をかけて食べるのですが、その湯を一度かけ食べ、そのあとまた湯をかけて…というのをみて、氏康さんは嘆いたとか。
 
毎日食べる飯にかける湯の量も一度で確実に定められないやつがどうしてあらゆる事柄を問題なく定められようか

 

ということらしいです😓

 

大河ドラマ・真田丸では氏政のこの「クセ」(?)を高嶋政伸さんが怪演してました(笑)そこでは、「わしはあえてこういう食い方をするのだ」というような説明でしたが…

 

 

ただ、やっぱり氏康さんの見立ては正しかったようで。

 

 

戦国大戦ver.2.0 北条034 【北条氏直】 -1582日輪本能寺より出ずる-

戦国大戦ver.2.0 北条034 【北条氏直】 -1582日輪本能寺より出ずる-

 

 

 

天下の情勢を完全に見誤ってしまったようです氏政は。
 
秀吉の現況をしっかり情報をつかんで判断できていれば、抗戦するという選択肢は取らなかったのでは、と思います。お家存続が一番大事ですからね。。

 

 

天下統一の総仕上げとしての小田原攻めだったので、全国の武将が兵を出して小田原へ攻め入り…
籠城戦の末、結局北条家は降伏することに。

 

 

この時、北条氏直は自分が腹を切るから、父・氏政やその他の者は許してほしいと秀吉に願い出たそうです。
 
しかしその願いは聞き入れてもらえず…
 
結局、父・氏政、叔父・氏照ほか家臣も斬首となりました。
 
しかし、実はこのとき、北条家のトップだった氏直は助命されているんです。
 
自分の命と引き換えに、他の者を助けてくれという心意気を秀吉が良しとしたことと、氏直の妻が徳川家康の娘であったことが影響したそうです。
 
一度は高野山へ登り謹慎生活となるのですが、翌年には赦免されています。
翌年って…早いですよね(笑)
 
しかも、1万石が与えられて一応大名として復活してるんですよね。
まあ大名といっても、有名で広大な領地を持った大名ではなく、1万石を超えてるから一応大名ですね、というレベルではあるんですが。。
 
実はこの北条氏の家は、その後の徳川の世も生き抜いて、幕末まで藩が存続したらしいです。
 
 
氏直は、ただ、赦免してもらって大名になってすぐに病死しています。
もし生きていたら…秀吉から翌年には、伯耆国一国を与えられる予定があったという話もあるみたいです。
 
真偽のほどは定かではないですが…国持ち大名に返り咲くことが許されるとは
 
どうやら、この氏直という人は、豊臣秀吉からは比較的好意的にみられていたのかな、と思われます。
赦免される際には、直接会っていたみたいですし。
 
 
…と考えると、
 
できることなら、北条家は取り潰しとはせずに、大幅に戦力は削った上で存続させてあげてれば…
 
実はそれが、豊臣家にとっても良かったのではないかと。。
 
 
小田原征伐に相当遅れてきた伊達政宗でさえも、多少の国替えはあったものの(五大老には入れませんでしたが)大大名として存続させてもらっていますし。
 
そういえば政宗も、秀吉の元へ行く時に「死ぬ覚悟で」を示すため、白装束で行くというパフォーマンスをして気に入られています。
また、さらに白装束に加え、黄金の磔柱(はりつけばしら)を抱えて、秀吉の元へ弁明にいったこともあるようです。
 
政宗の場合は完全にパフォーマンスですが
豊臣秀吉という人は人情味があるというか、
こういう人には弱いみたいですね。
 
伊達政宗は秀吉政権下で63万石、のちに謀反の疑いがかけられて減封され56万石になったそうです。(この時が黄金の磔柱)
 
 
北条氏直は、約200万石以上の石高があったようです。
(ちなみに伊達政宗も、秀吉に従う前は100万石以上ありました)
 
一応、戦わずして従った政宗が60万石程度になっているわけですから
まあ・・その半分・・か、それ以下ぐらいにはなっていたでしょうねぇ。。
 
「もらえる予定だった」と言われている伯耆国の石高は10万石程度だったそうです。
現在の鳥取県ですね。
 
 
・・と考えたら、もし最初から許されていても・・10万石程度か・・
となってしまうんですが(^_^;)
 
 
北条家が関東に残ることになれば、それに意味があったかもしれないなと思うわけで。
 
 
北条家が小田原から出て行ったあと、徳川家康が関東に入り
ここで着々と力を蓄え、江戸幕府の基礎を築くわけですよね。
 
もし北条家がそのままそこに残っていたら
現在の東京はなかったかもしれないなと思います。
 
 
また、たしかに北条家は徳川家と仲が良かったわけですが
(氏直の妻が家康の娘)
もし秀吉に許されて大名でいつづけられれば、秀吉への恩義も発生するわけで。
 
もし豊臣家をつぶす!と徳川家が動き出したときに
果たして簡単に徳川へ協力する勢力となったかどうかは・・
 
 
もしかして急に上杉と結ぶことにしたりして
関ヶ原の戦いの際に西軍側に北条がついたりしたら
 
関東へ移ってない家康は三河・駿河・遠江が所領でしょうから
東に敵として北条が存在していると
非常にやりにくかったろうと思います。
 
 
・・と考えると、実は豊臣家のためには
北条家はつぶさない方が良かったのではないかということに・・(笑)
ま、結果論ですけどね(笑)
 
 
その頃はまだど田舎だった、関東の土地は
潜在能力を秘めた土地だったんだろうと思います。
そこを手に入れ、開発を進めていったことが、家康が天下を取ることができた一つの理由でかつ江戸幕府が安定して続いた所以のような気がしますね。
 
 
まあでも・・やっぱり、家康のことなので
娘婿である氏直をうまく取り込んで、やっぱり徳川・北条連合で
豊臣家を倒しにいく・・そうなっていた可能性もありますね。
それだと・・大坂の陣はもっと早まっていたような気もします。
 
 
ということで(笑)
 
北条家が豊臣家につぶされなかったら
徳川の天下はなかったかもしれない
 
 
やっぱり、あったかもしれない(笑)
※このブログのタイトルは、以前は「はてなで泣いた」でした。独自ドメインへ移行したためタイトルを変更しました※ @iPhoone3Gが語る自叙伝的なこと。 これはまだ俺が20代前半だった時のこと。仕事で疲労困憊な俺は、退社後の深夜2時頃、近くにある大きめの銭湯にやってきた。銭湯といってもいわゆるスーパー銭湯ではなく、普通の銭湯だけど大きい風呂屋。ヤクザ屋さんかな?という人もけっこうみかけるこの風呂屋は、銭湯料金だけど露天的な風呂があったり、サウナが広かったりしてけっこう気に入っていた。銭湯での行動はいつも決まっていて、まずは身体を温めるために内湯に浸かる。その後サウナに入って汗を出す。そして露天の風呂を楽しみ、洗髪・洗体をして出る。というのが自分のコースだ。その日も同じように内湯に浸かり、サウナへ・・とここまでは良かったが、疲労が極限まで達していたためか、普段は絶対にないのに、サウナで横になって寝てしまった。どれくらいだろう??15分くらいは経っていたか。気がつくと、タオルをはだけさせ、一糸まとわぬ姿で眠っていた。サウナには深夜にもかかわらず数人の客がいた。(続きは、また。思い立った時に。)
iPhoone3G / AR30 このブログへメール サイトコンテンツの削除依頼について Google+