ひなぴし ドラマ考察

会いたくて、会いたくてふるえるシンドローム。トケルのブログ。

もし豊臣秀次が生きていたら徳川家康の天下は簡単ではなかった #真田丸

大河ドラマ「真田丸」

においても、間違いなく豊臣秀次さんは切腹させられるんでしょうね。。

 

ってあたりまえか(笑)

基本的には歴史に沿っているわけですから。

 

秀吉「検地をやったらどうなる??秀次。」

秀次「・・・・・・いろんなことが、わかります」

秀吉「もうよい!!」

 

このやり取り、面白かったです(笑)

 

 

たしかに、秀次という人が賢かったかどうかはよくわかりません。

 

もとは農民の出ですからね。

といっても、それは秀吉も同じなんですが・・

 

やっぱり長く、武士として生きてきて

信長の政策をみたりきいたりしてきた経験というのは

他の農民出の武士とは違うでしょう。

 

まあ・・検地はむしろ、農民出の秀吉だから「やった方が良い」と思ったことなのかもしれませんが。

 

 

豊臣秀次という人は、バカな人だったり、横暴でむちゃくちゃな人として描かれることが多いんですよね。

 

今までの大河ドラマとかでもたいていそんな感じだったと思います。

 

昔観ていた大河ドラマ「独眼竜正宗」では陣内孝則さんが豊臣秀次を演じていました。

まさに・・殺生関白でした(笑)

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2016年の大河ドラマ「真田丸」においては

そういう感じの印象には描かれていないですね。

 

なんというか、正直な人、そんな感じです。

 

 

そもそも「殺生関白」と言われた豊臣秀次は、本当にそういう人だったかは実は疑問があるそうです。

 

やはり強者の理論で書かれた後の書物において悪者にされただけではないかと。

 

秀次が「妊婦の腹を割いた」とか「辻斬りで千人を切った」とかいう話が実際に残っているそうですが、そんな重大事件を記した日記の類があまり存在していないそうで、「歴史書」的な書物でも本当に信用できるのかははなはだ疑問です。

 

もしかしたら、その時代に横行していた古今東西の悪行を、全て秀次がやったことにした、ということではないかという考察をされている方もいるそうです。

 

 

そして、僕も最近まで知らなかったのですが

もともと「秀吉が出世したから何の努力もせずに天下人になることができた無能な人」と言われていた秀次ですが

決してそういうことでもなかったみたいで。

 

たとえば、領国の治め方が良いと褒められている話があったり、また実際に戦場で戦功も挙げていた人だったんですね。(逆に小牧・長久手の戦い等で失敗もしているみたいですけど。失敗はどんな有力有名戦国大名でもみんなやっています)

 

だから、決して無能な人、というわけではなく

実は能力が高い人だったのではないか

というふうにもみえてきます。

 

 

まあ・・よく考えたら、あの秀吉の甥ですし、

秀吉の弟の秀長さんも有能な人だったと言われていますからね。

羽柴家はけっこう有能な家系だったのかもしれないです。

 

また、鶴松が亡くなって意気消沈している秀吉だとしても

さすがに無能な人を跡継ぎに選ぶことはないと思います。

あくまで「豊臣家の永続」を願っていたでしょうし。

 

さらに、もし無能な人なら、秀頼が生まれたあとも

その家族一族郎党全てを切腹や斬首にする必要もなかったでしょう。

誰も秀次になどついていくわけがないですから。

 

 

そうではなく、ある程度有能だったがゆえに

自分の実の子(実際には違うのではないかと言われているそうですが・・。「祈祷」というあやしい集まりによって淀君が妊娠したという説もあります。要は複数人と交わって子宝を授かるという儀式みたいなもの。複数人と交わるのは、誰の子かわからないようにするため)の今後を案じて、秀次を死においやったのではないかと。

 

この頃の秀吉はすでに常軌を逸していて、

変な被害妄想からそういう行為に走ったのではないかという気もしますけどね。

「真田丸」においても、だんだん秀吉の言動や行動がおかしくなってますよね。

 

 

でも、、、、、

 

 

歴史に IF はないんですが(笑)

 

 

もし秀次が死んでいなかったらどうなっていたか。

 

 

 

もし秀次が死んでいなかったら

関ヶ原の合戦が起こっていたかわかりませんし、

 

仮にやっぱり石田三成が我慢できずに起こったとしても、その後の世界において徳川家と双頭として並び立ち続けることができたかもしれません。

 

 

いや、なんというか

 

秀吉が死んで、秀頼が跡継ぎですよ

秀頼が成人するまでは、五大老・五奉行でうまくやっていってね

 

こういう中途半端な体制が、石田三成の不満を大きくさせ、徳川家康に戦を起こさせる隙を作ったように思えてなりません。

 

もしかしたら、秀次がトップとして政治を司っていれば、関ヶ原自体がなかったかも。

 

 

まあ・・秀吉ほどの求心力があったかは定かではないんですが。

 

有力大名の中には秀次に嫁を出している者も多数いましたし(そして秀次と一緒にころされてしまったわけですが)、実際秀次が秀吉から罰せられる直前に幽閉されている時等は見舞いに来る人が多数いたとか。

 

決して嫌われていた人ではないようです。

 

 

もし、大阪の陣のような戦いが起こったとしても

まず味方してくれる大名が少なくとも秀頼総大将(実際は淀君)という状態よりは多くいたでしょうし、

 

秀次自体は戦の経験もある武将ですから、真田信繁の「撃って出ましょう!」という進言も受け入れていたかもしれません。

 

 

大阪の陣の時の失敗は、淀君とも仲が良かった、戦の経験等ない大野治長らが実権を握っていたこと、と言われていますしね。

 

 

豊臣秀次さんはたしか28歳で亡くなっているんですが、その半生は、秀吉の命令で各地の大名の人質生活を送っていたようです。

何度も相手先の養子になっていたり。

 

そういうことから考えるに、もし実権が徳川家康に移ってしまう時代になったとしても

豊臣秀次であれば、うまくその世の中を乗り切って(家康ともうまくやって)、大阪もしくは機内(大和あたり?)の一大名として藩を持ち、

幕末まで続く藩を築くことができたかもしれません。

 

 

秀吉が豊臣家を存続させることができなかった理由として

秀次を殺してしまった

というのはかなり大きなことなのではないかと思いました。

 

 

ま、秀次は秀頼が成人するまでのつなぎ

と秀吉がしていても、やっぱり後々に跡目争いが起きていただろうなとは思いますが。。

 

豊臣秀頼もバカな人ではなかったようなので。

 

成人して淀君の言いなりにならないところまでになっていれば

そういう無駄な争いは避けることができたかもしれませんよね。

 

 

歴史ってつくづく、表面にみえていることが真実ではないんじゃないか

と思いますね。

 

現代の歴史は、後の世に正しく伝えられることを願います(笑)

強者の歴史とならないように・・

 

 

・・と言いつつ、もし日本が他国に侵略されるようなことがあれば

そういう風にされてしまう可能性はありますよね。。こわいこわい。

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