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真田丸のラストシーン・最終回予想の本命・対抗・大穴!信繁は真田幸村へ改名する! #真田丸

TV 日本史

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NHK大河ドラマ「真田丸」は毎週楽しみにみています。

ただ、悲しいかな、結末は・・知ってます・・(笑)

 

いや、ぼくだけじゃなくて、ほとんどの日本人は知ってますよね?

真田信繁が最期どうなるのかは。

 

真田丸は、いよいよ関ヶ原の合戦が始まろうとしているところです。

真田氏は、父昌幸(草刈正雄)・次男信繁(堺雅人)と兄信幸(大泉洋)が東西に別れて戦うことになります。

 

両者は関ヶ原で戦うわけではなく

昌幸の領土、上田あたりで戦うことになります。

 

 

このあとの真田丸のおおまかな流れ・あらすじ・ストーリー

 

上田での徳川秀忠軍と真田昌幸軍の戦いは、真田昌幸軍の勝利

(これは勝利というか時間を稼げたと考えるのが妥当。時間をかけて戦っていたらほぼ確実に徳川軍に敗れていたと思われます。徳川秀忠は、家康の命令により上田攻めから急に転じて、関ヶ原方向へ向かうことになりますので。)

 

関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利

 

徳川に歯向かった、真田昌幸・信繁親子は九度山へ配流される

(兄・真田信幸は功があったとして、真田昌幸の旧領をおさめる大名となる)

 

九度山での隠遁生活中に真田昌幸が死去

 

豊臣VS徳川の戦が始まるにあたり、豊臣秀頼から大阪城への入城を打診され受ける

 

大坂冬の陣において、信繁は真田丸を築き大活躍

 

徳川家康から大名として取り立てるという申し出があるも断る

(一説によると60万石?もの大大名として取り立てるという話すらあったとか)

 

大阪城の外堀がなくなったのを徳川方が待ち、大阪夏の陣がおこる

 

大阪夏の陣において奮戦するも、信繁は討ち死にする

 

 

だいたいこんな感じですね。

 

 

ということで、真田信繁こと、真田幸村さんは最後、

討ち取られて死んでしまうということは、多くの日本人が知っている事実だと思います。

 

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歴史秘話ヒストリア 徹底解明! これが“真田丸
 

 

 

真田信繁は、真田幸村へ自ら改名する

ちなみに、「真田幸村」と本人が名乗ったという証拠は全くないそうです。

江戸時代に入ってからの講談等で信繁のことを取り上げる際に、徳川に歯向かった実物の信繁の名前を出すのははばかられるということで「真田幸村」の名前が後世つけられたのでは、といわれているようですが、

(信幸が祖となった藩に伝わる歴史書には「幸村」の名前があるみたいですが)

 

一部の歴史学者さんで、信繁自身が大坂の陣で最後、徳川との決戦に挑む前に、自身を「幸村」と呼んだという話があるようです。

 

もともと武田信繁からもらった名前だそうです。

ただ、信繁の父は「昌幸」。

「幸」の字は、信繁の祖父「真田幸隆」から受け継ぐ由緒ある名前。

兄・信幸は、徳川方についたときから父の字を使うのを遠慮して「信之」へ改名したと言われています。

 

そうすると、真田氏の大事な「幸」の字を継ぐものがいなくなる。(信の字は信之が使っている)

ということで、昌幸の意思(徳川を倒す)を継ぐという決意から真田に由緒ある「幸」の字を入れた「幸村」へ自ら改名した

 

そういう考え方だそうです。

これ・・「真田丸」においても採用されそうな気がしてるんですが、いかがでしょうか。

「真田信幸」については最初から「真田信之」として描かれることが多いのにあえて「信幸」になっていますし。

 

ということで、大坂の陣に参陣するとき

もしくは、最期の最後、大阪夏の陣で徳川本陣へ突撃する前に

改名する!と予想します!

 

・・が、いかがでしょうか(笑)

 

 

真田丸のラストシーン・最終回予想

 

あたりまえですが、NHK大河ドラマは基本的には史実に基づいて展開されているので

ほぼ上に書いた流れでいくことは間違いないと思います。

 

みているうちにだんだん主人公に感情移入している身としては

結末がこういうバッドエンドになるのがわかっているのがすごく切ない気がします。

 

 

じゃあ・・ラストシーンはどうなるのか。

ちょっと予想してみました。

 

本命・対抗・大穴で表現したいと思います。

 

 

真田丸ラストシーンの本命

真田幸村は徳川本陣への突撃により徳川家康に切腹を覚悟させるほど追い詰めましたが、すんでのところで逃げ切られ打ち取ることができず。。

そのあと、そもそも数で劣勢な真田軍・豊臣軍はどんどん崩れていき・・

 

幸村の最期については諸説ありますが

戦いに疲れて休んでいるところにやってきた敵の兵に自ら声をかけて

「わしの首を取って、功を上げよ」といったとか。

 

そして討ち取られ・・

 

というのが通説で最もよく言われる最期。

 

本命としては、どういうシーンかいえば・・

首が取られるシーンでサッと終わる

 

たぶんしっかり座って目を閉じ、瞑想に・・

これまでのことを回想しながら・・みたいな感じかなと。

 

この「首が取られるシーンで終わる」というのは、実は以前に三谷幸喜さんが脚本をつとめた大河ドラマ「新選組!」でのラストシーンと同じ。

 

近藤勇こと香取慎吾さんが首を切られるシーンで終わりました。

もしかしたら、ここにかぶせてくるのでは無いかと思うのですが・・いかがでしょうか。

 

真田丸ラストシーンの対抗

対抗としては、真田幸村(堺雅人)がなくなるシーンではなく

「その後」が描かれて終わるのではないかというもの。

 

その後、といっても、幸村はすでに死んでいますから・・誰のその後かというと

真田信之(大泉洋)。

 

実はこの大河ドラマ「真田丸」は、真田幸村が主人公でありながら、幸村のことをただ言ってるだけのドラマではなくて、真田一族のことを描いた作品なんだろうと思っています。

 

犬伏の別れのシーンは、完全に真田信之がもっていきましたし(笑)

ここまでずっと昌幸に振り回され、弟へは劣等感を感じ続けてきた兄がいよいよ開花したという感じでした。

 

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ここからあとは史実で言うと、兄・信之は成功者、弟・幸村は敗者となっていきますし、

昌幸・幸村親子が関ヶ原後に殺されずにすんだのも、九度山での生活をなんとか送れたのも(密かにずっと仕送りしていたらしい)全て兄・信之のおかげです。

 

 

幸村のラストは「本命」と同じだとして、その後の信之がどのように真田家を存続させていったかというところが描かれるのではないかと思います。

 

「天下の飾りである」(褒め言葉だと思われる)という言葉を将軍(家光)からもらい、93歳まで真田家当主を務めた信之。

 

実は、息子たちの代になってお家騒動があったりするのですが・・

とにかく家康・秀忠・家光から信頼を受けていたそうです。

(秀忠は関ヶ原時の上田での恨みが真田家にあり、かつ大坂の陣での幸村のこともあってあんまり信頼されていなかったという話もあり・・それが原因で松代へ移されたという話もありますが)

 

※こんな話もありますが

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そういう信之のことをさらっと描いての終わり。。

というのもありえそうです。

江戸時代・幕藩体制が終わるまで真田家は続いたわけで、それができたのは真田信之がいたからですから。

 

またこのドラマのタイトルも「真田信繁」ではなく、「真田丸」ですから

幸村のことだけを描くとは言っていません。

真田家の人たちを1つの船「真田丸」での航海に見立てて人生を描く、

そういう趣旨からすると、信之のことをしっかり描いて終わり。

というのもありそうです。

 

その場合のラストシーンですが

それは

真田信之が

「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」

これを言って、幸村を振り返る

というシーンではないかと思います。

 

これは信之が語ったとされ文献に残っている言葉だそうです。

 

信之が徳川方を選んで家が残ったわけですが、そこには父や弟への感謝もあったであろうと思い、最後に幸村を想って終わる・・というのが綺麗かなと思いました。

 

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真田丸ラストシーンの大穴

 

真田幸村は大坂の陣で討ち死にする、ここは同じですが

実は幸村のこどもたちはけっこう生き残ったんです。

 

真田信繁は四男九女の娘、息子がいたそうです。

これらのこどもたちが大坂の陣のあと、捕らえられて殺されたかというと・・

けっこうそうではなく、むしろ助かっています。

 

ここは徳川家康の温情なんですかね。

豊臣秀吉なら全員殺してそうですが・・(秀次の妻子はほぼ全員ころされましたし)

 

ただ、こどもの情報については諸説あるみたいです。

やっぱり歴史の勝者である徳川家に歯向かった人の情報ですからね

正確な情報があまり残っていないのも・・しかたないかなと。

 

この子供の中で何人か重要な人がいます。

 

まず、長男の大助。

九度山にいるときに産まれた大助は・・

大坂の陣の際、幸村に同行して大阪城へ入城し、

最後は自害して果てたそうです。

 

最後の戦いに挑むにあたり幸村が「秀頼様を見届けるように」と命じ、泣く泣く大阪城へ戻ったとか。

最後には豊臣家臣から脱出を勧められるも「自分は幸村の嫡男である」として

そこでの自害を選んだそうです。16歳でした。

死ぬ直前に「真田幸昌」と名乗ったそうです。

ここから考えても・・信繁も幸村と名を変えてそうですね。真田丸ではもしかしたら信繁が幸村へ改名するときに、息子にも幸昌の名前を与えるのかもしれません。

だいたい「幸昌」って、父である真田昌幸と字は全く同じで順番入れ替えただけですからね(^_^;)

 

そして五女の阿梅。

この人は、正室である竹林院(真田丸では春、松岡茉優)の娘であるとも、高梨内記の娘(きり、長澤まさみ。「きり」という名前は完全にドラマオリジナルです。名前が不明みたいです)の子であるとも言われています。

 

たぶん・・真田丸では、きりとの間の子になるでしょう。

そうでなければ、きりを「生涯のパートナー」として紹介している意味がわからなくなるためです(笑)

 

しかも阿梅という名前は、幸村の最初の妻うめ(堀田作兵衛の妹、黒木華)の名前から取ったという理由付けができますし。

 

また、この子が、大事なことを成し遂げてくれるんです。

 

 

きりの最期についてはおそらく・・ざんねんながら

大阪城で討ち死に、もしくは大助とともに果てる・・等ではないかと推測されます。

 

この「きり」にあたる人物は史実では実際は大坂の陣の際、どこにいたかよくわからないらしいのですが

真田丸ではおそらく、幸村に同行して大阪城に入城した

という設定になると思われます。

 

父親である高梨内記も幸村に同行し入城しており、また娘である阿梅も入城していることが史実上ほぼ間違いないので、

きりも入城したこととされると思います。

 

そこで、阿梅に大事な役割を与えたあと・・何らかで命を落とす。。

そういう運命でしょう。

 

 

さて、阿梅はどうなったのかというと、

実は、幸村たち豊臣方ではない、敵軍である徳川方の仙台藩・伊達家の家臣、片倉重長の元へいきます。

 

これは重長自身が保護したとも言われますが、もうひとつの説「幸村が重長へ託した」が真田丸では採用されるでしょう。

戦いの中、勇猛であった武将・片倉重長を見込んで、自らの娘を幸村が託したと。

 

そこにはたぶん、その阿梅を送り出すきりの姿があるはずで・・

自分の子を送り出したおそらくそのあと、きりは命を落とすことになるんでしょう。

 

 

阿梅はその後、重長と結婚することになります。

 

重長との間にこどもは生まれなかったそうですが

大事なのは、阿梅が重長の元へいくことになったことによって

その弟や妹も一緒にもらってもらうことができたことです。

 

それによってどうなったかというと

「真田幸村の血筋を後世へ残すことができた」んです。

 

 阿梅が伊達家臣・片倉家へ嫁いだことにより

妹と弟も片倉家へお世話になることになりました。

 

九女(六女とも言われる) 阿菖蒲(母は春、竹林院)

・・仙台藩家臣・田村定広と婚姻(その前に) 

 

次男 大八(母は春、竹林院)

・・片倉重長に引き取られ、伊達家に家臣として召し抱えられる

 

この「大八」の家系が・・伊達家の中で家臣としてずっと存続するんです!

つまり、阿梅が片倉家へいくことができた縁で、妹弟もいくことができたわけで。

 

ちなみに大八は「真田四郎兵衛守信」と名乗ったそうですが

当然徳川幕府から睨まれたらしく・・仙台藩が問いつめられたそうです。

そのとき、「真田幸村の次男・大八は石投げで死んだ」と嘘の情報をつくり

守信は真田信尹(真田昌幸の弟、徳川の家臣として旗本として存続)の次男の息子ということにしたそうです。

うまく言い逃れしたものの危険だということでとりあえず片倉姓へ改名。

その後この家系は幕末まで続きますが、幕末の段階になってなんと真田姓へ戻しています。

 

つまり、真田家(幸村の家系)が復活したんです。

 

 

・・という話の中で、

 

きりが阿梅を片倉家へ送り出す、そしてきりが亡くなる

というところまでは、

 

たぶんどのラストの場合でも必ず含まれるストーリーだと思います。

 

そのあとの部分、

仙台家へいって、その子どもたちがどうなったか

どうやって真田家を存続させたのか

という部分が描かれるというのが、大穴予想の1つ目です。

 

 

でも、書いていて思いましたが、

この部分まで含めて、全部、他のラストの場合も含まれる話かもしれません。

 

「真田丸」という真田一族を描く話として考えたら

この「幸村のこども」の話と、信之の話を全て描いて終了

 

というのが、実はもっともありえるかもしれないなという気が(笑)

 

真田丸ラストシーンの予想外

ここはもはや「予想外」なんで(笑)

自由に書かせていただきます。

 

やっぱりまずは、真田幸村の活躍を描くために

まず成し遂げてほしいのが「家康討ち死に」です(笑)

 

ということで、この「予想外」バージョンでは、

徳川家康は、真田幸村の決死の突撃によって、命を落としたことにしてもらいます(笑)

 

本物の家康が死んだとき、実はもともと影武者を数人抱えていた家康は

「自分が死んだ時」の決め事として、本物が死んだらそれを影武者として扱い

自分自身は闇に葬れ、と。

そして無事な影武者の順位1位にあるものが「新・家康」として成り代わる。

 

幸村に本物の家康が討ち取られた時点から

別の場所にいた影武者が「新・家康」となります。

 

幸村は本物を打ちとったわけですが、その時点で影武者が指揮する徳川軍が盛り返してきて、豊臣軍は劣勢に・・

 

というか、もともと劣勢でしたからね。

たまたま幸村が家康討ち取りに成功しただけで。

 

そのため、幸村は密かに大坂城内へ撤退。

豊臣秀頼が心配ですから。

 

そこで息子の幸昌と合流し、その後・・

豊臣秀頼を連れ、大坂城の抜け穴を通って密かに大坂城を脱出。

 

船に乗り、薩摩国(鹿児島)へ向かう。

 

花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて

退きも退いたるかごしまへ (のきものいたるかごしまへ)

 

これは京わらべの間ではやった童歌と言われており

また鹿児島には、秀頼や幸村のものと言われる墓もあるそうです。

 

また、秀頼らしき「高貴な」人がいたという伝説も残っているみたいで。

 

 

・・・と、幸村生存説は実は日本各地にあるようで(笑)

 

源義経や織田信長と同様の話かもしれませんが・・

 

 

大河ドラマ「真田丸」の最終回・ラストシーンは

これを大穴としたいと思います!!!(笑)

 

もしこういうストーリー、物語にしたら・・伝説になるでしょうね、この大河ドラマは(笑)

 

批判もすごそうですけどね(笑)

 

 

 

ただ、実は幸村の死は本当だったかどうか定かではないという話もあるそうで。

 

 

疲れて「手柄にせよ」と自ら討ち取られにいったという幸村。

それもある意味あやしい気もしますけどね(^_^;)

観念して、往生際が良いという捉え方もできますが

 

あの戦いの最中、実はいたるところで

「我こそは真田幸村なり!」という者がいたそうで。

大混乱したそうです。

 

そういう作戦だったんでしょう。

ただそんな作戦までやった幸村ですから

自分が死んだと思わせるために、影武者に「自らを討ち取れ」と言わせたとしても

おかしくはないかなという気がします。

 

また、討ち取った武士(西尾宗次)身分が高くなかったことから

幸村討ち取りを家康に報告した際に

「おまえのような者に幸村が名乗るわけがない!」と怒ったとかいう話も。

 

また、ある説では、そもそもこの西尾はこれが幸村だとは知らずに討ち取って

幸村を知っているという者から「それは幸村だ」と教えられて知ったという話もあります。

 

どちらにしても何か微妙・・

 

 

きわめつけは「首実検」

 

首実検とは、手柄を確認するために、どの武将の首をあげてきたのか

見て確認する場ですが

 

幸村の首は誰が確認したかというと

幸村の叔父である真田信尹。そうです、昌幸の弟です。

 

実は、討ち取られる前に、幸村と直接会ったのが真田信尹だったから選ばれました。

大坂冬の陣のあと、冬の陣で大活躍した幸村に家康が「大名として迎えたい」という申し出をする際、

使者としていったのが信尹でした。

 

その信尹は・・首実検のとき何といったかというと

「幸村の首かどうかわからない」

 

だそうです(笑)

 

つまり、けっこう近い時期にあった親族が・・本人と確認できなかったんです。

 

顔に傷があったそうなんですが、こういう傷があったか?と聞かれ信尹は

「傷はなかった」と答えたそうな。

 

 

討ち取った武将のいうことを信じるなら

「信尹!おまえは直前に幸村と会っておきながら、顔がわからないとは何事だ!」となりますし

 

もし信尹のいうことを信じるなら

「やっぱりおまえみたいな下級武士に討ち取られるわけはないわ!」となりますよね。

 

まあ・・実際には幸村に傷があったとして

信尹があったときは暗い場所だった(夜だった)と考えれば、それなりの歳であった信尹の老眼ならまあ見えなくても不思議はないですけどね。

 

 

もしかしたら・・徳川方も、「幸村・・もしかして、討ち取られてないかも・・」と思ったかもですが

 

仮にどこかへ逃れているとしても、

これ以降に幕府に対抗できるほどの勢力になるとは考えにくい

また、ちゃんと「死んだ」と宣伝した方が都合が良い

 

ということで、ハッキリ確認はできていないけど、「幸村は死んだ」を宣伝したのかも・・

 

 

 

・・・・・・・・・・・・ということで(笑)

 

長々と書きましたが、おつきあいありがとうございました(笑)

 

書きたいから書いた内容でした。

 

 

ぼくとしては、「予想外」だった時が面白いな〜と思ってます。

 

ま・・・むりか・・(笑)

 

 

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※このブログのタイトルは、以前は「はてなで泣いた」でした。独自ドメインへ移行したためタイトルを変更しました※ @iPhoone3Gが語る自叙伝的なこと。 これはまだ俺が20代前半だった時のこと。仕事で疲労困憊な俺は、退社後の深夜2時頃、近くにある大きめの銭湯にやってきた。銭湯といってもいわゆるスーパー銭湯ではなく、普通の銭湯だけど大きい風呂屋。ヤクザ屋さんかな?という人もけっこうみかけるこの風呂屋は、銭湯料金だけど露天的な風呂があったり、サウナが広かったりしてけっこう気に入っていた。銭湯での行動はいつも決まっていて、まずは身体を温めるために内湯に浸かる。その後サウナに入って汗を出す。そして露天の風呂を楽しみ、洗髪・洗体をして出る。というのが自分のコースだ。その日も同じように内湯に浸かり、サウナへ・・とここまでは良かったが、疲労が極限まで達していたためか、普段は絶対にないのに、サウナで横になって寝てしまった。どれくらいだろう??15分くらいは経っていたか。気がつくと、タオルをはだけさせ、一糸まとわぬ姿で眠っていた。サウナには深夜にもかかわらず数人の客がいた。(続きは、また。思い立った時に。)
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