熊本城を築いた有名な武将といえば、加藤清正です。
豊臣秀吉に取り立ててもらい出世していった武将として
「豊臣恩顧の大名」と言われます。
しかし、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に組みすることで結果的に
豊臣家の権力を弱めてしまう手助けをすることになってしまいます。
まあ・・加藤清正も、福島正則も
「豊臣政権」の維持ではなく、「豊臣家を存続させる」ことを優先に考えていたのかもしれません。
そう考えると、石田三成率いる西軍について
実際の実力者である徳川家康と敵対することは
どう考えてもよくない、と思ったのかもしれませんね。
2016年の大河ドラマ「真田丸」においては
石田三成(山本耕史)が関ヶ原の戦いの戦い後に捕らわれて亡くなったあとは
その意思を引き継いで、豊臣家を守る!というような決意をしていたように思います。
真田丸での加藤清正は、新井浩文さんが演じていましたね。
けっこう「バカキャラ」っぽくもあったんですけど(笑)
頭に血がのぼったら何をするかわからない、的な(淀と密通してそうな家臣を、秀吉のために秘密裏に井戸に落としたり)感じでしたけど(笑)
でも、加藤清正は領国である熊本では、熊本城を名城として仕上げていますし
さらに善政を敷いたことでも有名なんですよね。
だから決して、バカキャラではないんだと思います。
虎退治のエピソードが有名なぐらいですから、強い人ではあったんでしょうけどね。
NHK-BSプレミアム「偉人たちの健康診断 歴史に学ぶ健康法」
で
加藤清正 謎の死の真相に迫る!
という特集が放送されていました。
慶長3年 (1598年) 清正37歳 豊臣秀吉が死去 秀頼6歳
慶長16年(1611年)5月 清正50歳 大阪から熊本へ戻る船の中で高熱を出す
そして約1ヶ月後の6月24日に加藤清正は逝去する
この時の清正の症状が書かれた資料によると
「高熱が出て、ろれつが回らず、身体が焦げたように黒くなった」
とあったそうです。
死因にはいくつかの説があるそうですが・・
1.梅毒説 好色のため 虚の病(梅毒)にかかった
浅野長政や池田輝政も梅毒で死去したと書かれているそうで、梅毒はかなり広まった病気だったそうです。感染症で、抗生物質ペニシリンが発見されるまでは不治の病でした。
ただ、加藤清正の症状には「バラ疹」のような梅毒の特徴的な皮膚の症状の記載がないそうです。(赤いアザのような斑点ができたり、ゴム腫と呼ばれる大きなしこりができる)
よって梅毒とは考え難い、と。
上に書いてある症状とはちょっと違っています。
2.家康による毒殺説
慶長16年(1611年)4月13日 清正の死の2ヶ月前
家康は清正たち豊臣恩顧の者たちを食事に招待
「大御所様(家康)の食事会のとき 気分が悪くなった者がいた」
という文献が残っているとのこと
実は、同席していた浅野幸長や池田輝政など豊臣恩顧の大名たちが
その後次々と急死しています。
家康は薬の知識に詳しく、中国から医学書を取り寄せて読んでいたほど。
徳川家に伝わる薬にはトリカブトが使われているものがあったりするそうで・・
もしかしたらそれが使われたのでは??と想像できるのですが
トリカブトの場合は、即効性があるため、それはありえない。
ではなにかというと、ヒ素ではないかとのこと。
ヒ素は少しずつ投与された場合、中毒症状として
高熱、意識障害、色素沈着
があるそう。
つまり、清正の症状と合致します。
しかし問題は、家康との会食から死ぬまで、2ヶ月もあるため
少量ずつ毒を盛るのは無理では・・
水戸藩に伝わる資料では
「家康と秀頼の対面の時に饅頭が出たが、清正はこの毒で死んだ」
というものが残っているそうです
もしかして会食のときに土産として饅頭が渡されていたとして
饅頭20個ぐらいをもらっており、
数日かけて10個ぐらいたべたとしたら・・
毒は1個食べたときの10倍になるため、数カ月経て亡くなることも考えられないことはない、とのことでした。
実は、大河ドラマ「真田丸」でも
加藤清正は、徳川家康(内野聖陽)の命令によって、服部半蔵(ハマカーン浜谷健司)が何らかの毒を清正に塗りつける?刺す?ようにしていました。
おそらく「遅効性」のものをつけた、という意味だったんだろうと思いますが・・
真田丸でも、毒殺説を採用していました。
清正の家康による毒殺説に「それはない」とする話もあって
それは清正の次女・八十姫が家康の十男・頼宣と婚約しており、秀頼・家康会見の時も頼宣の護衛として参加したという話があるためです。
家康としても、豊臣家との橋渡しを期待していたという話もあるとか。。
ただ、
結局、豊臣恩顧の大名たちが家康にとって邪魔だったことは間違いないので(笑)
もしかしたら、こども同士の婚姻を持って油断させておいての毒殺
というのもやっぱり考えられないことはないな、という気がします。
家康は薬の知識は本当に詳しかったようですし、自分の健康には相当気を使っていたみたいですからね・・
自分よりも相当年齢が下の加藤清正よりも、絶対に長生きしてやる!という思いで家康が生きていたとしたら
やっぱり殺す可能性もあるのかなという気がしますね。
あともうひとつあるのが
3.プレッシャーの連続説
だそうです。
秀吉の家臣時代は、成果を上げなければ切られるというプレッシャー
朝鮮出兵での壮絶な体験
徳川時代に入ってからの秀頼と家康の関係に苦慮する
こいう長年のストレスの蓄積が清正の身体を蝕んだのではと。。
秀頼と家康の会見、というのがストレスのピークと考えられ
そのあとに亡くなったというのも理解できます。
そのプレッシャーから発症した可能性があるのが
「スキルス性胃がん」
初期症状がほとんどない最もタチの悪い胃がん
もしこれだった場合も、症状と合致するそうです。
腫瘍熱(がんが原因の発熱)、失語症(がんが脳に転移)、播種性血管内凝固症候(血管に転移し至る所で血が固まる)
ということで・・
「2」なのか「3」なのか、結局はわかりませんが・・(^_^;)
ぼくはやっぱり、家康の毒殺があやしい気がしますね〜〜
息子の嫁の父親だとしても
容赦なく殺しそうな気がします、家康は(笑)