ひなぴし ドラマ考察

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真田幸村、長男説・家康スパイ説・生存説 BS-TBS諸説あり! 真田丸

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」は大人気の大河ドラマでした。

もともと主人公の真田幸村(真田信繁)が多くの日本人が好きな武将なので

かなりの視聴率が予想されましたが、それに加えて三谷幸喜さんの脚本の面白さ

主役の堺雅人さんや大泉洋さん、草刈正雄さん、長澤まさみさんなどの好演もあって

2016年の年末には「真田丸ロス」が叫ばれていました。

 

真田丸の視聴率が良かったことで、2017年の「おんな城主直虎(柴咲コウ主演)」の視聴率がそこそこの数字になっていることにもつながったと思います。

 

それまでは放送されるたびに視聴率が低い、というようなことを言われてましたからね・・(^_^;)

 

 

さてそれはさておき

「真田丸」ではいろいろな新説が取り入れられていたような気がします。

たとえば、豊臣秀次の自決。

 

以前は、秀吉の命令により切腹したというのが通説でしたが

近年出てきた新説「秀次が自ら命を絶った」というのを真田丸では採用していました。

 

豊臣秀次は秀吉の命令で死んだわけではなく自害したという説 #真田丸 はこの説採用か - ひなぴし

 

・・というように、いろんな新しい要素も取り入れながら「真田丸」は人気を博していったんですが

 

真田幸村という人物については

他にもいろんな噂や謎、説があるようで。。

 

 

今回は、BS-TBS「諸説あり!」で紹介されていた

・真田幸村 長男説

・徳川家康のスパイ説

・真田幸村 生存説

について、まとめておきたいと思います。

 

www.bs-tbs.co.jp

 

父親は真田昌幸(草刈正雄)、真田信繁(幸村・堺雅人)は次男、長男は真田信之(信幸・大泉洋)と言われています。

 

信繁は大谷吉継の娘を娶っていることもあってか

信繁と昌幸は関ヶ原の戦いで西軍につき、信幸は徳川家康の重臣・本多忠勝の娘を正室に迎えていますので東軍につきました。

 

昌幸と信繁は九度山に幽閉され、昌幸はそこで死去

信繁は大坂の陣の際に豊臣家に召し出され、最後は徳川家康に死を覚悟させるほどの活躍をしたあと命を落としたとされています。

 

 

真田幸村、長男説

・真田家は弱小大名だった

・そのため、次男である信繁は織田・上杉の人質としてたらい回しにされる

・真田家が戦国の世を生き抜くための道具として活用された

 

東京大学の山本教授による説

信繁は長男だった

 

根拠1

「寛政重修諸家譜」(徳川家が全国の大名や旗本の家系をまとめた書)

兄信幸の通称は源三郎、信繁は源次郎

 

普通に考えれば、名前の付け方が逆ではないか

 

根拠2

信繁に対する待遇

 

18歳で豊臣秀吉の人質となったとされるが

実際は秀吉直属の親衛隊・馬廻衆として仕えていた

また1万9千石もの報酬を受けていたとされる(大名クラス)

 

信繁の妻は大谷吉継の娘

豊臣政権を動かしていた奉行衆

将来政治の中枢に入っていく可能性がある立場になる

 

秀吉には譜代の大名というのがいないので

優秀な人材は引き上げていこうという意欲があったと思われる

 

 

 

もし、幸村が長男だったとするならば

いつ誰が、幸村が次男だったという話を作り出したのか?

 

幸村の死後、徳川の時代になってから作られたものではないか

 

徳川にとっては、徳川に敵対した信繁のことは認めたくない

また、徳川に仕える真田家としても隠したい存在である(信之の家系)

 

そのため、真田家自ら、信之の家系を正当化するために

信繁と信之の兄弟の順を入れ替えて伝えたのではないか、という話

 

徳川家にとってもその方が都合が良い

 

ちなみに上の「家譜」で、信之の生年は記録されているが

幸村の方は入っていない

 

 

名前の順については、諸説あるようだが

その家の嫡男が代々五郎や六郎を名乗ると決まっているような場合は

長男が五郎や六郎になっている場合はあるが

その場合も、その下の兄弟は六郎や七郎のように数字は大きくなるのが普通だとのこと

 

 

真田幸村は徳川家康のスパイ説

大坂夏の陣で徳川家康に死を覚悟させるほど追い詰めたと言われているが・・

 

 

この本に「真田幸村スパイ説」が書かれている。

家康に内通していたという話。

 

 

九度山での待遇

 

父や妻が一緒だったり、家来がいたり、子もたくさん生まれたり

という状態だが、幽閉という状態ではこういうことは普通ない

宇喜多秀家は八丈島へ流され、妻の帯同も許されていない

大坂までわずか50kmしか離れていない九度山に幽閉されるというのもおかしい

 

真田家は諜報活動を得意としていた

幸村の祖父の代から有名なことだった

そのため、家康は幸村を使って、大坂方の動きを探らせていたのではないかという話

 

幸村の娘・おかねが嫁いだのが石川光吉、その兄弟である石川光元の妻・「亀」が家康に見初められ家康の側室となっている

その亀がのちの尾張徳川家初代藩主の徳川義直を産んでいる

・・ということで、家康と幸村は親戚と言えるような間柄である

 

家康は親戚であることを理由として幸村に接触

幸村をスパイとして取り込んだのではないか

(ただ、これぐらいのつながりはどこの家にもあるため、遠いと言える)

 

表裏比興の者といわれた真田昌幸同様に、行動したのかもしれない

 

 

家康の孫にあたる松平直政がわずか500の兵で真田軍に突っ込んだ

「あっぱれ若武者」と叫んで扇子を投げ、攻撃をやめたと言われている

 

この時の扇子で何かを徳川方へ伝えたのではないか

 

 

もしスパイだとすれば、大坂方を暴発させる導火線の役割を果たしたのではないか。

 

 

結局最後に幸村が死力を尽くして家康をおいつめており

スパイだとすると、それとつじつまが合わない

 

 

しかし、たとえば冬の陣の頃までは家康のスパイとして活動していたものの、

その後条件交渉等がうまくいかず、不和になったのではないか。

 

もしかすると当初は「信濃1国」と言っていたのを、大坂城の堀を埋めた姿をみて家康が条件を勝手に下げ、それに幸村が憤慨し裏切ることになったのかもしれない

 

真田幸村、生存説

定説では、大坂夏の陣での激闘の上、身体を休めているところを討ち取られたとされている

 

鹿児島で生き延びていたという話

 

根拠1 「左衛門佐君伝記稿」

大坂の陣のあとに流行った童歌

花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて のきものいたりかごしまへ

 

鹿児島へ逃げ延びたとするわらべうた

 

ただ、この伝記が書かれたのは幸村死後200年経ってから

 

リチャード・コックスの日記

大坂の陣からわずか5ヶ月後、「秀頼は薩摩で生きている」と記載されている

貿易を通してさまざまな権力者とやりとりがあった人物

 

 

南九州市頴娃町(えいちょう)

 

山の中に「幸村の墓」と伝わるものがある。

墓石に使われているのが「山川石」という貴重な石で、島津家しか使っていないものだという。

殿様と同等の扱いがされているということ。

 

実は周辺の地域に「雪丸」という苗字の家が40軒ほどあり

さらに地名にもなっている

幸村が訛って「雪丸」となったという説がある

 

幸村はこどもを作って暮らしたという言い伝えがある

 

また、周辺の墓地には

六文銭が家紋として多数の墓に刻まれている

 

 

九州では「なかはら」を「なかはる」というような言い回しが多数ある

「ゆきむら」が「ゆきまる」になるのも納得できる

 

 

島津家は幕末になって謀略が得意な藩になっている

戦国期の島津家にはそのような話はない

 

謀略は真田家のお家芸

もしかしたら、真田家の力が島津家に何らかの形で加わったのではないか

 

(とすると、徳川家を最後倒したのは真田の力だと言えなくもない)

 

 

 

以上、真田幸村に関するミステリーでした。

 

歴史の勝者となった徳川家に歯向かったものとして、歴史からはやっぱりいろいろ消されてしまっているんですよね。

 

なので、本当のところはよくわかりません。

ということは、もしかしたら

 

本当は

 

長男で、家康のスパイだったけど最後は裏切り

でも死なずに薩摩まで逃げて生き延びた

のちにその子孫が島津家に仕え、謀略に長けた島津家を作り出し

徳川家を打ち倒した

 

なんてことがあるのかもしれません。

 

 

なんとなく、鹿児島に残るいろいろな証拠から

「本当に幸村は薩摩まで来たんじゃ・・」と思う部分もありますが

そうなると、一緒に逃げた豊臣秀頼はどうなったのかなと・・

 

あ、秀頼は天草四郎時貞になったという説もありますけど

それは・・・ないですよね(^_^;)

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