ひなぴし ドラマ考察

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おんな城主直虎 本能寺の変は秀吉黒幕説⁉︎明智光秀(光石研)の子・光慶が天海になる説 ネタバレ・あらすじ・ストーリー

 

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の後半の見所は

なんといっても、井伊直政となる万千代(虎松)の徳川家での出世物語でしょう。

 

「直虎」では、草履取りからのスタートとなっていましたが

どちらにせよ、めきめき信頼されて出世していくことは間違いなしです。

 

 

そんな万千代が活躍したとされているのが

家康最大の危機の1つとされている「伊賀越え」です。

 

本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺されたとき

家康は少ない家臣を引き連れて、堺にいました。

 

命を狙われる状況で、本拠地である三河・遠江まで帰らなければいけない。

そのときに家康のお供として一緒にいた万千代は

身を呈して家康を守り、本拠地まで無事にたどり着くことができたという…

その時の活躍によって、徳川家の中でも一目置かれるようになったと言われています。

 

何かあった時のための退路を考えておく

という流れで、伊賀越えに備える万千代やそれを裏で支える井伊直虎の姿が「おんな城主直虎」では描かれるようです。

 

 

では、その伊賀越えをせざるを得なくなる原因である、「本能寺の変」は「直虎」ではどのように描かれるんでしょうか??

 

❉あらすじ・ストーリー・ネタバレ、採用されそうな新説は、この記事公開時点の予想です

❉史料が残っているものや事実の話と、「おんな城主直虎」の創作のお話の区別が、下の文章ではわかりにくいところがあるかもしれません

 

 

明智光秀転生―逆賊から江戸幕府黒幕へ

明智光秀転生―逆賊から江戸幕府黒幕へ

 

 

明智光秀役は、光石研

おんな城主直虎での明智光秀役は、光石研さんであると発表されました。

 

 

明智光秀役は光石研さんに決定!|ニュース|NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』

 

発表されたのはつい最近です。

まあ、、井伊家の物語で、明智光秀が出て来るのは、本能寺の変のところだけでしょうからね。

 

しかも、主人公である井伊直虎は、本能寺の変のあとすぐに亡くなってます。

 

井伊直虎と同年代の戦国武将は誰?生年月日、死没、石高は? #おんな城主直虎 - ひなぴし

 

あ、明智光秀の方が先に羽柴秀吉にやられますけどね(^_^;)

 

 明智光秀が織田信長を殺した理由として挙げられている説のひとつに「ハゲ」呼ばわりされたから。

というのがありますが

 

光秀が信長から「金柑頭!」と罵られるシーンも出てきそうなので

光石研さんはおそらくそういう髪型で登場するんじゃないでしょうか。

 

本能寺の変の時の年齢は

 

信長がたしか49歳。

演じる市川海老蔵さんは39歳なので、少し年上の役を演じることになります。

 

光秀演じる光石研さんは56歳、

光秀の年齢については諸説あるのですが、

以前から言われているのは54歳。

おそらく「直虎」ではこの説を採用したんでしょうね。

てねも最近は「67歳」説が有力だったりします実は(^_^;)

 

 

2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」続・完全読本 (NIKKO MOOK)

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潮新書 女城主直虎と徳川家康

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光秀が本能寺の変を起こした動機については

こちらを参照↓

#本能寺の変 信長殺しの真実と明智光秀の謀反の動機/本当の裏切り者は誰か BS-TBS #諸説あり! - ひなぴし

 

おんな城主直虎での本能寺の変の経緯

ここはネタバレになるので、

ネタバレ見たくない人は、ここでこのページから去ってくださいm(_ _)m

 

本能寺の変につながる、このあとの流れを書いていきます。

 

 

-----ここから-----

 

❉本能寺の変の経緯に影響しない部分は、端折ってあります。

 

 

明智光秀は旧知の仲であった今川氏真に「信長を殺そうと思う」とうちあける。

 

光秀

信長が「労をねぎらう」として、家康らを安土へ招待するのは、家康とその有力家臣を根こそぎ暗殺するためで、

その時の接待役と、暗殺役を自分は仰せつかっている

そのタイミングを利用して、逆に信長を暗殺したい

そのためには、徳川家康にも事情を知った上で協力してもらう必要がある(知らないふりをして出てきてもらう)

だから、徳川家康と親しい氏真から家康へこの旨をうまく伝えてほしい

自分を信じてもらうために、自分の息子を人質に出す

 

氏真

徳川家康にはその旨を伝えたが、家康からは正式な返事がこない

受け取った人質の扱いに困り、なぜか井伊谷に潜ませる(井伊谷なら正体不明でもこどもは大事に扱うのでは、という考え)

 

直虎

謎の子供について調べ、そこに氏真が関わっていることをつきとめ、氏真からことの真相を聞く

その後、家康の元へいき、どうするのかと問い詰める

直虎はとりあえず、子は預かっておく、と言う

 

家康

信長の招きに応じて、安土へ

安土で接待をしたあと最後に京の本能寺で茶会を開き、そこで殺される

と聞いていたのでとても緊張していたが

信長の接待は豪華絢爛であった

 

光秀

宴の最中、備中で毛利攻めをしている羽柴秀吉からの使者がやってくる

苦戦しているので加勢してほしい

その知らせを受けた信長はすぐさま、光秀へ秀吉の援軍に向かうよう指示をする

「接待が…」という光秀に、有無を言わせず行かせてしまう

 

家康

謀反を起こすはずの張本人がいなくなってしまい、

本来「殺される」と聞いていた家康一行は激しく動揺する

その後、家康一行は堺へ向かう

 

直虎

万千代の依頼で、堺から家康の本拠地・三河遠江へ帰るための策の準備をしていた

光秀が謀反を起こしたらすぐに船で逃げれば良いと考えていた(伊賀越えルートは他で準備されている)

 

家康

信長の使者より京へ来るように伝えられる

光秀がいなくなった今、京にいくと信長の策で家康一行は全員討たれてしまうと混乱するが

その時家康は

「そもそもそんな策はなかったのではないか」と言い始める

安土城で接待をしておいてから堺見物へ行かせ

そのあとまた京へ呼び寄せて殺すなど

信長らしくない「二度手間」の方法であるためだ

「殺すなら安土の宴の時にやっているはず」

光秀がただ、接待を利用して信長を殺したかっただけではないのか?と。

信長からは殺気も感じられなかった。

ということは、光秀がいなくなった今、このあと京で茶会へ参加して普通に帰るだけなのでは?

家康は意を決して京へ向かうことにする

 しかし、京へ向かう道中に信長が光秀に討たれたという情報が入り、家康たちはそのまま陸路で伊賀を越え伊勢から船で三河へ戻った

三河に戻ると羽柴秀吉が光秀討伐に乗り出しているという情報が入る

 

 -----ここまで-----

 

 

ということで、

 

光秀が信長殺しを決断した理由については

詳しく描かれるかどうかは不明です。

 

怨恨説、天下を取ろうとした野望説、四国討伐阻止説、室町幕府再興説

など、色々な説が唱えられていますが…

 

家康黒幕説もあるんですが

 

今回の「直虎」では、家康は黒幕ではないものの(もともと計画を持ちかけたのは明智光秀である)

本能寺の変かもしくは何らかの形で光秀が信長を殺すことは、家康は事前に知っていた

ということになっています。

それによって、事前に、逃走ルートをいくつも確保していたと。

 

家康は光秀に騙されていた、という形なんですが…

 

なんというか、

すごいタイミングで秀吉から援軍要請の使者がきているので

もしかすると、本当の黒幕は秀吉説を「直虎」ではとっているのかもしれません。

秀吉黒幕説です。

天下を狙う秀吉が光秀をあやつっていた、と。

 

秀吉と光秀はどちらも織田家では「中途入社組」で

とにかくがんばらないと信長から認められない。

がむしゃらになって頑張って、ようやく一国一城の主にまでなれたのに

それでは落ち着かせてもらえず、

次は中国を攻めるぞと言われ前線に駆り出される。

場合によっては今の領土は召し上げで、これからとる毛利の領地を与えると言われ…。

 

そりゃおそらく

秀吉と光秀は「こんなん、やってられないよな」という話のひとつもしていたはずです。

 

立場もある程度は近いため親近感もあったかもしれません。

 

日本を天下布武したあとは、朝鮮、中国だ!大陸侵攻だ!と信長は言っていたそうですから

秀吉も光秀も、このまま信長の元にいたら、死ぬまで最前線で働かされると思っていたことでしょう。

 

そういう未来を悲観して本能寺の変を起こしたという説もあります。

 

そんな話をする間柄だった光秀をうまく使って信長を殺したい…

しかもあわよくば自分が天下を狙えるかも??

そう秀吉が考えた可能性がありそうです。

 

「直虎」では、その説を採用しているような気がします。

 

 

光秀は家康を騙していたのですが

秀吉も光秀をだましていた、と。

 

秀吉

有力家臣がみんな留守の間に、明智殿が信長を殺し

そのあと、毛利と和睦を結んだ自分が京へ急いでとって返して、光秀に加勢する

 

そんなことを言っていたのかもしれません。

 

援軍要請をする話は、光秀にはしていなかった。

もしかしたら、安土城にいるタイミングで信長を殺されてしまうと、自分が毛利との和睦がうまく整わず、戻ってこれない。

モタモタしている間に光秀に力をつけられるとやっかいだ…

 

そもそも秀吉は最初から、

信長を殺した明智光秀を「殿(信長)のカタキ!」として討伐することで天下をねらっていたのかもしれません。

敵討ちを成功したものが信長の後継者争いで優位に立てることは間違いないですしね。

(実際、その後の信長後継者を決める清洲会議では秀吉が最も発言力が強かった)

 

織田軍の兵の大半は、日本全国それぞれに有力家臣が引き連れていってしまっていますから

安土・京で接待をやる役目だった

明智光秀が動かせる兵はさほど多くない。

 

毛利と戦っている自分の兵をもってすれば

たやすく明智軍を倒すことは可能だと。

 (羽柴vs明智の山崎の合戦は、羽柴軍3万以上に対し、明智軍は1万程度だった)

 

「直虎」では細かくは描かれなさそうですが(おそらく羽柴秀吉役という俳優もいないでしょうし)

背景には、秀吉黒幕説があるような気がします。

 

 

実は史実上も秀吉があやしい部分は多々ありまして

その中の1つに

 

この出来事のあと

明智光秀に関わる資料や記録を、秀吉がことごとく破却した

という話があります。

 

そうしてしまったがゆえに、

今でも本能寺の変のことはよくわからない、謎だらけなわけですね(^_^;)

 

明智光秀の子が天海になる説

 そういえば、、

直虎が井伊谷で預かった、明智光秀の子供はどうなったんでしょうか??

 

実は明智光秀が討たれたあと、万千代が家康の使いでその子を捕らえにくるのですが

直虎が「そなた(万千代)のように僧にでもして逃してやれば良いではないか」と言い、

家康もそれに同意した、ということになります。

 

この子の名は「自然(じねん)」と言うそうです。

 

『ありがたい事じゃのう。』

と直虎が自然を生き延びさせるようはからうのに感謝した家康。

 

『明智の子が生き延びてくれればいつか報いる事も出来よう。』

 

まあ、本当に信長が家康を殺そうとしていたかは定かではないので、それを教えてくれたことに感謝する意味はないかもしれませんが

 

徳川としても信長は脅威であり、築山殿や信康を殺されてしまった恨みもあるので(この「直虎」では、信長に殺されたことになっている)

 

その信長を討ってくれたことに対する感謝なのでしょう。

 

 

気になるのが「いつか報いる」のこと。

 

意味もなくそんなことは言わせないんじゃないかと思い…調べてみました。

 

 

実は、のちに徳川家康の側近・ブレーンとして活躍する僧・天海は、、生き延びた明智光秀ではないかという説があります。

 

日光に「明智平」という地名があったり、明智の家紋のような模様が見かけられたりすることもその根拠のひとつとなっているようです。

 

また、徳川家光の乳母で有名な春日局は、明智光秀の家臣・斎藤利三の娘で

「なぜ主君殺しをやったような者の娘を乳母にするのか?」という疑問もあったりします。

 

なので、徳川家康と明智光秀には関係があって

もしくはブレーンとして側に仕えた僧・天海が明智光秀なのではないか、という説があるのですが…

 

ですが、、

もし天海が明智光秀だとすると、

明智光秀は116歳まで生きたことになるそうで(笑)

あり得なくもない数字ではありますが(^_^;)

これ、本能寺の変の時、明智光秀が54歳だった説の場合の話なので、67歳だった説だったら、、129歳になります。さすがにこれはありえない(笑)

なので、

明智光秀☞天海説の人は、本能寺の変の時光秀は54歳だった説をとるんでしょうね。。

 

まあ、どちらにせよ、

やっぱり、源義経がチンギスハーンになった説や豊臣秀頼が天草四郎時貞になった説のように

「こうなっていてほしい」という思いが、そういう説につながっている気がして、、

なかなか本当とは考えにくいなと。

 

では、天海は明智光秀と全く関係がないのかというと、

それを、否定するというか

むしろ新しい説として出てきてきるのが

 

 

天海は明智光秀の子供説です。

 

 

これが言われるようになった理由の1つに

筆跡鑑定があります。

 

残っている天海と光秀の書状の字について

筆跡鑑定を行うという企画がありました。

 

これは、光秀=天海説を検証する目的で行われたのですが

 

「天海・光秀説」筆跡鑑定のまとめ - 物語を物語る

 

数回行われているそうなんですが、結果として

 

・似てない字はあるが、極めて似ている字もある

 

としていて、似てない字がある以上別人では?とのことですが、

似ている字があるパターンとして、親子などの血縁関係がある場合、

というのが挙げられています。

 

年齢から考えると、

光秀の子供なのでは…という話なのですが

 

謀反人の子供がそのまま生き延びられたのか?

というのは大きな疑問です。

 

明智光秀の子供の男子だと、明智光慶(あけちみつよし)という人がいます。

 

この人も謎が多くて、父とともに山崎の合戦に出陣したらあと、亀山城か坂本城で自害したという説もあるんですが、出家して僧となった、という説もあります。

 

明智光慶は

 

・大阪の岸和田にある本徳寺を開いた南国 梵桂(なんごくぼんけい)(この寺には光秀唯一の肖像画がある)(この寺を開いたのは光秀本人であるという説もあり)

 

・京都の妙心寺の住職・玄琳(明智風呂と呼ばれる蒸し風呂形式の浴室があり、光秀を弔うためのものと伝わる)(光秀の妻の実家や、光秀の三女である細川ガラシャが嫁いだ細川家と関係があるとされている)

 

ではないか?

と言われているそうですが…

 

要は、出家して生き延びたのではないか?

と言われているということ。

 

 

もしかして、生き延びて、

そして天海になったのかもしれない。

 

ここで「直虎」における家康の発言を思い出してほしいのですが

 

『明智の子が生き延びてくれればいつか報いる事も出来よう。』

 

そうなんです。

もしかしたら、僧となった天海(明智光慶)を

家康は召しかかえることで報いたのではないか?ということ。

 

「直虎」における、光秀の子の名前は「自然(じねん)」でした。

 

天海の諡号(しごう、死んだ後におくられる名前)が「慈眼大師(じげんだいし)」だそうです。

 

「じねん」と「じげん」

 

これは…??

もしかして、元の名前である「じねん」に近い名前を死んでからやっと送ることができたということか?

(生きてるうちは、光秀の子なのではという疑いがどこからかかるかわからないため)

 

 

なんとなくですが、

 

自然は僧となり、いずれ天海となって家康に仕え

徳川幕府を形作るのに大きな役割を果たした

 

「おんな城主直虎」では、このようにもっていっている気がします。

 

 

ちなみに、

 

明智光秀と徳川家康は以前から互いに認め合う存在で

 

家康☞光秀  器量の大きい人だという印象

光秀☞家康  いずれ天下を治める人である印象

 

を持っていたという話があり

光秀はかねてからもっていた、政権構想を家康に事細かく話していた

という説があります。

 

この政権構想を家康はパクって江戸幕府の礎を築いたとか。。

 

 

いや、もしかして、天海が明智光秀だったり

その子の明智光慶だったとしたら。

 

家康とともに、もともと明智家が描いていた政権構想を実現していった

とも考えられます。

 

 

…と、まあ、

 

考えようによっては、いくらでも都合よくとらえられるのですが(笑)

 

「おんな城主直虎」は、前年の真田丸に引き続いて

色々な新説などを取り入れた面白い作品だと思います。

 

小領主の話でありながら

こじんまりしすぎず

ある程度歴史ファンを楽しませてくれるあたりが

うまいなーと思いますね〜

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