ひなぴし ドラマ考察

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井伊直虎と小野政次の関係 #おんな城主直虎 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定 書き起こしまとめ

BS-TBS にっぽん!歴史鑑定 10月16日放送
#131 「井伊直虎と小野政次の関係」

の内容を書き起こし、まとめます。

 

おのまさつぐを「小野正嗣」と書いてしまう人がいるようですが、正しくは「小野政次」です。

また、小野道好という名でも知られているようです。

 

 

 

BSの番組には歴史・日本史関連番組が実はけっこう多いので

録画してほとんど観ています(^_^;)

 

それらの番組で取り上げられる題材は

たとえば最近、それ関連の映画が公開された、とか

やはり話題に上っている人物を取り上げることが多いのですが

当然、NHK大河ドラマのことも取り上げます。

 

2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」も当然、各局の歴史番組で取り上げられたのですが

さすがにそれらはたいてい、春ぐらいまでに放送されました。

そりゃそうですよね。

大河ドラマは1月から放送してますし、年末近くなった終盤に放送しても・・となると思われるためです。

 

ですが、今回、田辺誠一さんがナビゲーターを務める「にっぽん!歴史鑑定」で、

「おんな城主直虎」の残りの放送が10回を切った段階で、

「直虎」絡みの内容を放送してくれることになりました。

 

その題材が「井伊直虎と小野政次の関係」

これは・・

おそらく、大河ドラマでの小野但馬守政次(高橋一生)さんの最期が相当話題になったためと思われます。

 

小野但馬守政次(高橋一生)の最期ネタバレ!辞世の句、嫌われ政次の一生あらすじ #おんな城主直虎 本懐、磔、近藤康用 - 顔だけ黄色い人

 

井伊直虎自体が「ほぼ無名」な戦国武将であり、その配下である小野但馬守政次なんて

当然教科書等にも出てこないような人物なので。

今まで注目されることもなかったと思いますが、やっぱり大河ドラマで放送されたらその効果は絶大ですよね。

政次の墓と言われているところにもけっこう足を運ぶ人がたくさんいるそうです。

(本当の墓ではないという説の方が有力っぽいけど)

 

この番組に「先生」と呼ばれて、小和田哲男さんがよく出演していることも

関係しているかなと。

小和田先生は、「おんな城主直虎」の時代考証を務められていますので。

 

 

大河ドラマで、真実のあの二人

井伊直虎(柴咲コウ)と小野但馬守政次(高橋一生)が

どんな関係だったか

 

気になる方は、この下のまとめをぜひご覧ください。

 

おんな城主 直虎 完結編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

おんな城主 直虎 完結編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

 
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」 緊急特盤 鶴のうた

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」 緊急特盤 鶴のうた

 

 

 

下克上の戦国の世に現れた、おんな城主・井伊直虎。
彼女の前に立ち塞がったのが、家臣である井伊家筆頭家老・小野政次です。
「大河ドラマ」の中では、直虎と政次は幼なじみで初恋の相手。
政次は、死ぬまでその恋心を抱いていたにも関わらず、井伊家を危機に陥れる行動を繰り返し、直虎を苦しめ続けました。果して、真実の顔はどうだったのでしょうか?
政次は、直虎の元許嫁・井伊直親の暗殺の首謀者だったのか?
直虎を井伊谷から追放した黒幕だったのか?
井伊谷の新領主就任後、わずか34日で城を追われてしまったのはなぜか?
直虎への一途な恋心を、実は抱いていなかった!?
大罪人として処刑された政次は、怨霊となって井伊谷に現れたといいます。
“処刑場があった河原”“小野家歴代の墓”“政次を祀った社”
それらを訪ねていくと、怨霊となった政次の意外な素顔が見えてきます!

www.bs-tbs.co.jp

 

 

ちなみに、この番組内では武将をイラストで何人も描いていましたが

それら全てが、NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」でその役を演じている俳優さんの見た目そのままに描かれていました(笑)

再現VTRに出てくる役者さんはほとんど全然違うイメージの人ばかりだったんですけどね。イラストが・・(笑)

 ただ、今川氏真役の再現VTRの俳優さんは、尾上松也さんに似てました(笑)

 

イメージしやすいように番組の書き起こし内に出てくる名前には、大河ドラマでその役を演じた俳優・女優の名前を()書きで入れておきます。

 

 

おんな城主・井伊直虎とその家臣である小野政次

同じ年頃であったと言われるふたり。

敵対する間柄とも、お互い惹かれ合っていたとも言われるが、二人の本当の関係は?

 

 

井伊直虎・小野政次の生い立ち

 

平安時代が始まりと言われる井伊家は、鎌倉時代に井伊谷の有力領主となる

しかし戦国時代に入ると今川家が遠江に侵攻、戦いに敗れ、領地を明け渡した

 

今川義元の時代、井伊直平(前田吟)が娘を人質に差し出し臣従することを誓ったことで

今川の支配下で井伊谷を治められるようになった

 

天文5年(1536年)頃に直虎(柴咲コウ)は生まれる

小野政次(高橋一生)の生年は不明だが、ほぼ同世代で二人は幼馴染だったとされている

 

政次の父・小野正直(吹越満)は井伊家の筆頭家老を務める重臣

小野家は飛鳥時代に遣隋使として中国に渡った小野妹子につながる家系といわれ

平安時代の歌人、小野篁を排出した名門の家柄と言われている。

 

小野家は井伊家に仕える前は、今川の家臣

井伊家が今川家に臣従したとき、今川義元(春風亭昇太)の命令で井伊家の家臣に加わった

小野家が井伊家を監視することを目的としたと言われる(今川のスパイ)

 

正直は単なる監視役で甘んじようとは思っておらず野望を抱いていた

井伊家領地の乗っ取りを狙う

 

井伊直親と次郎法師の婚約

天文11年(1542年)

直虎の祖父、直宗(大河ドラマではすでに死んでおり登場せず)が戦死すると、直虎の父・直盛(杉本哲太)が新たな当主となる

しかし直盛には男子がいなかったため

直盛の祖父にあたる直満(宇梶剛士)の子である直親(三浦春馬)と、娘である直虎を結婚させて

直親を将来の当主にしようとした

小野正直はこれに猛然と反発

 

小和田哲男

「正直には政次という子がいたため、政次と次郎法師(直虎)を結婚させようとした。小野家と井伊家を合体して乗っ取りを画策した」

 

しかし井伊直盛はこの案を聞き入れず

 

小野正直の讒言

小野正直は、井伊直満とその弟・直義(大河ドラマには登場せず)が甲斐の武田家と内通している

と今川義元へ讒言(事実無根)

すぐさま直満と直義は申し開きに駿府の今川館へ向かうが、義元に許される殺されてしまう

 

さらに、直満の子・直親にも危険がせまったため

親族で直親の身を隠し、井伊谷を脱出、信濃の寺にあずけて難を逃れた

 

正直の企みはうまくいかなかったが

井伊家も小野正直を粛清することはできなかった

 

小和田哲男

「この時代の主君とナンバー2というのは同格に近いような立場。しかも、井伊家側は小野家が今川とつながっていることは承知しているため粛清できなかった」

 

この時点で井伊家の次世代を担う者は女子の直虎だけになってしまい

直虎と結婚した男子が次の井伊家当主となるはずだったが

直虎は出家した

 

小野政次との結婚で井伊家が乗っ取られないようにしたとも

許嫁だった直親を思うあまりの行動とも言われる

 

井伊直親が家督相続

天文23年(1554年)野望は成し遂げられないまま

小野正直は死去

 

父の跡をつぎ、井伊家の筆頭家老についたのは

小野政次

 

そしてこの頃、信濃に身を隠していた井伊直親が戻ってくる

 

出家していた直虎との結婚はならなかったが

直盛の養子に入り、直親は跡継ぎとなった

 

 

小野政次に井伊谷を乗っ取るチャンスがやってくる

永禄3年(1560年)桶狭間の戦い

 

今川義元が織田信長(市川海老蔵)の尾張に攻め入った際

あっけなく討ち取られてしまう

 

今川家が大きくゆらぎ始める

今川家の人質となっていた松平元康(のちの徳川家康・阿部サダヲ)はこれを機に三河で独立

さらに、今川と同盟関係にあった武田家が不穏な動きをみせる

 

さらに井伊家では

約300名が戦死

 

しかも、井伊家当主の直盛が討ち死に

直親が跡をつぐことになった

直親の子である虎松(のちの井伊直政)はまだ2歳

 

もしものことがあると、跡継ぎの男子がいない状態

 

小野政次の弟・小野玄蕃(井上芳雄)は桶狭間で戦死したが

政次は桶狭間には参加せず、小野家は井伊家ほどの被害はなかった

 

井伊直盛は戦死する直前に遺言をのこしていた

「養子の直親を当主とするが小野政次とは反りが合わない

よって中野直由(筧利夫)を後見役とする」

 

お家騒動を嫌った直盛が小野家との争いを避けるため

親戚筋にあたる重臣の中野直由を後見役に指名したが

それによって直親からある程度権力を奪う形になってしまった

 

小野政次の讒言

小野政次はある日、今川館で、今川氏真に

井伊直親が徳川家康とつながっていると讒言

今川家では謀叛が相次いでいたため、一旦は兵を挙げて討伐しようとしたが

内乱を起こすことは謀叛人の思うツボということで

直接本人を呼び問いただすこととした

 

一方、直親は政次の行動を知って怒り心頭

直親は申し開きのため今川館へ向かったが

その道中に立ち寄った掛川城下で

直親は今川の家臣によって斬り殺された

(永禄5年12月14日)

 

直親は本当に徳川とつながっていたのか?

 

小和田哲男

「謀叛の計画があったかどうかはわからない。史料はない。ただ、井伊谷は三河と接する地であり、もともと今川に良い感情をもっていない井伊が徳川と結ぶことはありえないことではない。

 

直親が徳川と通じていたとしたら、政次が今川へ報告するのは当然。

今川の力はまだ大きい。今川の家臣として働くのが小野家としては安全と考えるはず。

 

もし直親が徳川と通じていなかったとしたら

政次としては、直親がいなければ井伊家を乗っ取れるという感情はあったと思われるが

実際は今川が井伊家を陥れるために行った策略ではないかと思われる。

政次は知ってか知らずか、それに加担する形になったのではないか」

 

井伊直虎の誕生

今川氏真は、直親の子・虎松(寺田心・菅田将暉)を殺害するように命じる。

しかし、直虎の叔父であり、今川家の家臣である新野親矩(苅谷俊介)の嘆願で生き残ることになった

虎松は新野家に預けられ育てられることに

ところがその2年後である、

永禄7年(1564年)新野が戦で死亡

その前年には直虎の曽祖父にあたる井伊直平が75歳で死亡

虎松を守るものはいなくなった

 

龍潭寺の住職・南渓瑞聞(小林薫)は

井伊家の存続を図るため、出家していた直虎を還俗させ

虎松の後見に据えた

虎松が成長するまで、直虎が井伊家当主の代理を務めることとなった

 

小野政次はこの、女性が領主となるという奇策に反対をした形跡がない

 

小和田哲男

「女性に務まるか?まずはお手並み拝見ということかなと。その場合は自分がとってかわろうと」

 

徳政令をかわす直虎

直虎は再建に全力を注ぐ。

 

今川は強引な内政干渉をしてきた

井伊谷で徳政令を施行せよとの命令(借金棒引き)

 

農民たちは商人や寺からお金を借りてなんとかしのいでいたが

その借金を棒引きにするのが徳政令

貸し手が大きな損害を被り財産を失う

一時的には借り手は助かるが、次から困ったときには借りる相手がいないため

農民にとっては決していいことばかりではなかった

 

また、井伊家もたくさんの借金をしており、徳政令が発布されると

次から借金ができなくなることで

領地経営が破綻することが目に見えていた

 

 

命令に従わなければ今川から討伐を受ける可能性があった

 

 

直虎は徳政令の引き伸ばしをはかった

金を貸していた側である龍潭寺に対して「寄進状」(徳政令によって龍潭寺の利益が損なわれることはない)を送るなど抵抗を続ける

 

小野政次はこれに激怒

 

政次の要求をのらりくらりとかわすが

政次は農民らを味方につけ、徳政令の施行をせまった

 

それでも直虎は首を縦にふらなかった

 

小和田哲男

「このときのやり取りは記録にはあまり残っていない。しかしこれまでの今川からの仕打ちをみていると、かなり執拗な嫌がらせや脅迫があったと思われ、その急先鋒が政次だったのではないか。」

 

井伊直虎の追放と小野政次が井伊谷城の城主に

永禄11年(1568年)11月9日

井伊直虎は井伊谷の統治権を剥奪され、追放された

 

井伊直虎の追放に小野政次は加担したのか?

 

小和田哲男

「小野政次も関わっていた可能性はある。今川の思い通りになる小野家を据えたいという意向はあったはず」

 

小野政次は井伊谷の新領主となった

 

小和田哲男

「戦国時代は自分の家が生き残るためには謀略・裏切りがつきもの。それをやったとしても責められることではない。」

 

井伊直虎と小野政次に恋愛関係はあったのか

直虎と政次は同世代の男女ということだが

お互い恋心はなかったのか

 

小和田哲男

「大河ドラマでは、政次は独身を通して直虎への想いを寄せたという形にしているが

史実では政次は結婚してこどもも二人いた。ただ、幼馴染であれば、そういう感情があってもおかしくはない」

 

小野政次の最期

井伊谷から追放された直虎は龍潭寺に身を寄せた

虎松は三河の鳳来寺でかくまわれる

 

井伊家は事実上消滅

 

小野政次は父からの代の願いであった井伊谷を我が物にすることに成功

 

今川家の弱体化をみた武田信玄(松平健)が今川との同盟を破棄し臨戦体制に

そして徳川家康には今川領の分割支配を持ちかけ、東西から同時に攻め込む密約を交わす

 

永禄11年12月6日、信玄は駿河に侵攻を開始、

永禄11年12月13日、家康が遠江に進軍

 

直虎を追放してわずか1ヶ月、家康が大軍で井伊谷に攻め込んできた

 

それを手引したのが井伊谷三人衆・鈴木重時(菅原大吉)、菅沼忠久(阪田マサノブ)、近藤康用(橋本じゅん)

もともとは井伊家の家臣であったりしたが政次の支配に納得せず

家康に通じ寝返った

 

地理や城のことを知っているこの3人が徳川の案内役を務めた

 

小和田哲男

「この3人は井伊家が井伊谷城を奪還するのに活躍したと言われているが

どの程度小野政次に恨みを持っていたのかはわからない」

 

小野政次は大きな戦の経験がなく、家臣を引っ張る統率力もなかった

家康の大軍をまえに兵が次々逃亡、政次も城を捨て逃げ出した

政次が井伊谷の領主として実権を握ったのはわずか34日間だった

 

井伊直虎の秘策と小野政次の本当の姿

もしかしたら直虎が井伊谷の領主であったならば

徳川家によって井伊家は滅ぼされていたかもしれない

 

ある意味では、小野政次は直虎の身代わりになったような形になっている

 

 

もしかすると・・

 

今川氏真から発せられた徳政令を2年間も拒否し続けた直虎

そんな直虎がただ指を加えて井伊谷を去ったというのは考えにくいのではないか

 

直虎には井伊谷奪還の秘策があった

それが徳川の侵攻だったのではないか

 

直虎は前々から徳川と通じていて

その徳川に小野家を滅ぼしてもらった

 

だとすると、政次は直虎にはめられたのではないか

(直虎が井伊谷を去って1ヶ月後に徳川が攻め込んできている。直虎はもともとこの動きを知っていたのではないか)

 

小和田哲男

「ある程度家康がせめてくることは知っていた可能性がある。龍潭寺の情報網などから。その時期をうかがっていた可能性はある。タイミングをみて政次を領主にしたという可能性も全くないとは言い切れない(わからない)。井伊谷三人衆のうち鈴木は井伊家一族、菅沼は家臣だったので、もしかしたら直虎が利用した可能性はある」

 

井伊直虎が小野政次より先を読んでいた(一枚上手だった)とかんがえられる

 

 

井伊谷三人衆の手引で井伊谷城へ攻め込んだ家康。

小野政次は逃亡するが

井伊谷城から3kmの場所にある竜ヶ岩洞(りゅうがしどう、昭和56年に発見された総延長1kmにも及ぶ巨大な洞窟)

ここに逃げ込んでいたという説もある

 

小野政次は発見され、徳川・井伊家に歯向かった罪で処刑される

蟹淵(がにぶち)と呼ばれる井伊谷の刑場

永禄12年4月7日小野政次は獄門磔の刑に処された

詳しい年齢はわかっていないが、直虎と同じ生まれであれば、34歳

その1ヶ月後には同じ蟹淵で2人の息子も処刑

 

小野家歴代の墓は龍潭寺にあるが

政次の墓は不明

かつて蟹淵にあったといわれる供養塔が政次の墓ではないかとも言われているが確証はない(よくネット上などでも紹介されている墓のように石が並んでいるところ)

 

政次の墓はわかっていないが

江戸時代の初めころに政次が怨霊となって出てきたという話しがある。

処刑されて数十年後。

 

「怨霊となって出てきた」というのは「不遇の死を遂げた」ということであり

どういったことが不遇だったかと考えると

井伊家を存続させるために、政次を悪者に仕立てる必要があったのではないかとかんがえられる

 

もしかすると井伊家側にお家存続に関わる重大な不都合があり

それを隠すために小野政次を悪者に仕立てあげた可能性がある

 

それで裏切り者の罪を着せられて処刑された政次は怨霊となった

 

 

井伊谷城があった山の中腹に立つ二宮神社

政次の怨霊を沈めるため、今も社を立てて政次を祀っている

 

↑↑↑↑ 書き起こしここまで ↑↑↑↑

 

 

全体を通して言えることは

あんまり史料が残っていないから、確定的なことは言えない

だと思います(笑)

 

やっぱり、そこまで有名な武将でもないので、記録も少ないんだと思います。

 

あとは、最後に書いた「もしかしたら井伊家にとって都合が悪いのかも」の話につながりますが、

歴史に残っている記録というのは、のちの勝者が自分たちの正当性を訴えるために書いたものがほとんどなので。

井伊家に関する歴史は、その後の彦根藩である井伊家が、自分たちの正当性を強く訴えるために、各所を改変している可能性が高いです。

 

そのため、たしかに・・小野政次が「悪者」とされているのも

もしかしたらそうした方が都合が良いからかも、という気がします。

 

小野政次が井伊家を一度滅ぼそうとしたということなら大悪人ですから

その小野家の親族をそのまま召し抱えていたり

龍潭寺の一番目立つ場所に小野家の代々の墓が残っていたりするのは

ちょっと違和感があります。

 

やっぱり小野家は井伊家にとって、大きな役割を果たした家なのではないか?

と考えるのも理解できますね。

 

小野政次だって・・

これから滅びそうな今川家の元で城主になったところで

将来は無い、とわかりそうなもんですしねぇ。。

 

 

やはりこの番組は、小和田先生がメインで解説しておられたので

ほぼ大河ドラマの話の流れどおりでした。

 

まあ、小野政次&井伊直虎の恋愛関係は・・ドラマ上の演出とは思いますけど

これもまあ記録がはっきりと残っていないわけで、その可能性もあった

と言えるかなという気がします。

 

 

新たな発見、というのはあまりなかったかなという気もしますが

 

大河ドラマでどうして政次を「良い人」として描いたのかな?という疑問については

「怨霊となって世に現れたのは、不遇の死を遂げたということがあったため」

という説があるからだ

と知れたことは収穫でした。

 

そんなに有名な武将の最期でもないのに、相当印象に残る最期であった、大河ドラマ「おんな城主直虎」の小野但馬守政次の最期。

小野但馬守政次(高橋一生)の最期ネタバレ!辞世の句、嫌われ政次の一生あらすじ #おんな城主直虎 本懐、磔、近藤康用 - 顔だけ黄色い人

 

歴史の「空白(記録がなく正確にはわからないところ)」部分をうまく解釈して面白いストーリーを組み立てたおんな城主直虎の脚本家・森下佳子さんには脱帽です。

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