ひなぴし

会いたくて、会いたくてふるえるシンドローム。

#わろてんか 主人公のモデル・吉本せいの生涯/吉本興業創業者 藤岡てん(葵わかな)との比較

「わろてんか」

高視聴率を記録し続ける朝ドラにおいては

やや視聴率が低空飛行気味と言われていますが・・

 

2017年に大ブレイクした俳優・高橋一生さんが出演しているなど

話題性もあります。

 

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たしかに「お笑い」の話なのに、

なかなか笑えるところがない・・

 

主人公である藤岡てん(葵わかな)の夫となる籐吉(松坂桃李)の芸が寒い・・

 

っていうのはぼくも感じるところではありますが(笑)

まあ、「笑わせてくれるんやろ?!」という先入観が、ハードルを上げている気もします(^_^;)

 

主演の葵わかなさんは朝ドラの主役としての素質を十分に持っているように感じますので

(純朴な感じ?)

 

 

 

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みていくうちに、感情移入できるようになるのかな・・?

という気もしています。

 

 

さて、主人公の藤岡てんは、

日本のお笑い界のドンである吉本興業の創業者である

吉本せいさんをモデルにしていると言われています。

 

ただ、「吉本せい」ではなく「藤岡てん」という名前なので

あくまで吉本せいさんをモチーフにした

フィクションということではあると思いますので

 

吉本せいさんの人生をそのまま描く、というわけではなさそうです。

 

 

ただし、この記事公開時点の放送回まででもドラマでは

吉本せいさんの言動や行動とほぼおなじように描かれている部分もあります。

 

そこで今回は

吉本せいさんはどういう人だったのか?

についてまとめてみたいと思います。

 

2017年11月06日放送のBS-TBS「にっぽん!歴史鑑定」

#134「吉本興業創業者・吉本せいの真実」の内容から書き起こしです。

 

吉本興業百五年史

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女興行師吉本せい―浪花演芸史譚

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吉本興業の戦略 お笑い買い占めまっせ! (Take books)

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「吉本興業創業者・吉本せいの真実」

※「吉本八十年の歩み」を元にした内容

 

明治22年(1889年)12月 兵庫県明石市で、林家の3女として生まれる

両親はせいが生まれてすぐに大阪・天神橋筋へ引っ越し、米穀商を営んでいた

 

花嫁修行として

船場の商家に女中奉公に出た

 

店は奉公人達を養うお金を節約するため

食欲がわかないように、まかないを出す際に悪臭を放つ漬物を出していた

 

せいは、「漬物の臭みを消す生姜を入れれば食べられる」と提案

女中仲間でお金を出し合ってしょうがを買うことにした

女中生活で創意工夫をする才能が磨かれた

 

 

明治43年(1910年)せいが20歳のとき

大阪の荒物問屋「箸吉」の跡取り息子・吉本吉兵衛と結婚

 

嫁いですぐに長女を出産

 

商家の女主人として一生を送るはずだったが・・

 

 

店の帳簿を確認すると、赤字続き

日露戦争終結から5年、終戦後の不況の波が続いていた

 

姑は厳しく、厚手の木綿着物を大量に洗わされ

たらいの水が血で染まることもあった

 

吉兵衛は本業よりも芸事が好きで

ひいきの芸人を引き連れて芝居見物や寄席通いにあけくれていた

 

みずからも舞台に立つこともあり

仕事をほったらかし、地方へ巡業へいってしまうこともあった

 

 

明治44年(1911年)「箸吉」は廃業

 

父は夫(林豊次郎)と別れるようにいったが

「夫を助け、石にかじりついても成功させるんや」

これがせいの信念だった

 

気の強い女でやきもち焼き

 

 

「これからどうしよう」と思っていたら

吉兵衛が「第二文芸館の興行権を買いたい」といってきた

150人も入れば満員の小さな寄席

 

この期におよんで何を血迷った・・と思うものの

「そんなに好きならやってみたら」とお金の工面は自分がやると宣言

 

明治45年(1912年)4月1日

第二文芸館の経営にスタートする

 

天満の青物市場に近い場所

 

興行権は300円(現在の価値で約150万円)

 

実は寄席が近隣に7軒もあり、第二文芸館は赤字経営だった

 

 

当時の上方お笑い界は落語が人気

しかし人気の落語家を呼ぶお金はなかった

 

舞踏や剣舞、曲芸、女道楽

と呼ばれる

「色物」の出演者は出演料がやすかったので、

色物の演目が多かった

 

せいが立てた作戦は、安売り

 

 

当時の平均的な木戸銭(入場料)が15銭だったのに対し

第二文芸館は5銭とした

 

激安入場料で張り合うことにした

 

人を雇うのももったいないので

せい自身も身を粉にして働いた

 

吉べえも、大好きな寄席の経営のため

心を入れ替えるつもりで名前を「泰三」に改め、夫婦二人三脚で働いた

 

 

通常なら寄せが赤字になる木戸銭だが

この木戸銭で黒字化を達成した

 

その方法は

 

・とにかく詰め込む

たくさんのお客さんになんとか入ってもらうことで

150人満員を200人へ、キャパシティを増やした

 

・回転率をアップ

人が詰め込まれたため熱気で暑くなり、長居をする客が少なくなった

また、プログラムも工夫し、少し前に出演した芸人をまた高座に上がらせ

プログラムが一巡したように思わせた

 

・物品販売

あられやせんべいなど、塩辛いものを売り

のどを乾かせ、飲み物を販売していた

 

こうした作戦で売上を確保していた

 

 

寄席の帰り客が「暑いなあ、ほんま暑い」

というのを聞き

帰り道に冷たいものを買うはず

と思いついたせいは

 

ひやしあめを氷の上でごろごろ転がして売るパフォーマンスで

ひやしあめは大ヒット

 

第二文芸館の前で売っていたが

寄席の帰り客だけではなく、通行人からも買われるようになった

 

通行人を寄席へ呼び込む宣伝活動によって

寄席にはお客さんが増えていった

 

冬にはみかんを売る

みかんを食べたあとのみかんの皮

 

陳皮と呼ばれる漢方薬の原料になるので

乾燥させて、近くの薬屋へ売っていた

 

 

「小さなことからコツコツと」(西川きよし)

これがせいの人生哲学だった

 

第二文芸館は人気寄席となり

近隣の寄席を次々と買収していった

 

松島「芦辺館」

上福島「龍虎館」

梅田「松井席」

天神橋筋5丁目「都座」

 

これらは全て「端席(はせき)」と呼ばれる二流の小屋。

西区と北区ばかりだったが、南へ来る方が一流になれる時代だった

 

大阪ミナミへの進出を狙うせいたち。

 

大正4年(1915年)ミナミの一流の寄席・蓬莱館が経営難で売りに出された

 

興行権の金額は1万5千円(現在の7500万円)

 

このような時の交渉は泰三ではなく、せいの担当

泰三はせいを前に押し出した方が男との交渉はうまくいくだろうという考えだった

 

せいの交渉により1万3千円で蓬莱館を買収

すべて借金でまかなった

 

せいと泰三は、落語家の桂太郎を訪ねた

「花と咲くか 月と陰るか」

花月で人生の全てをかけた大勝負!ということで

蓬莱館の名を南地花月と改称

 

第二文芸館→天満花月

松島「芦辺館」→松島花月

上福島「龍虎館」→福島花月

天神橋筋5丁目「都座」→天神橋花月

 

と、名に「花月」を用いることにした

 

大正7年(1918年)せい夫婦は大阪市南区に自宅兼事務所を構えた

「吉本興業部」という看板を掲げた

吉本せい27歳のとき

 

 

ミナミには紅梅亭という一流寄席があった

紅梅亭の木戸銭は35銭に対し

南地花月は20銭としたが

客は流れてこなかった

 

なにわの爆笑王といわれた

桂春団治が、紅梅亭には出演していたため

 

古典落語にナンセンスなギャグを入れた話が大ウケしていた

 

 

桂春団治のヘッドハンティングを行う

まずは、桂春団治に金銭援助を行う

春団治は浪費癖があった

 

ある程度援助したところで、ピタッと援助をやめる

 

そしてひたすら待った

 

すると春団治は困った

せいはそこに行き、全面的に支援すると約束

そのかわり、高座は花月だけ、と約束させた

 

吉本興業部と専属契約を結ばせた

2万円の前渡金で借金を肩代わり

月給700円という条件だった

 

1000円あれば家が1軒建つと言われた時代だった

 

 

紅梅亭から花月へ客が流れ、

紅梅亭は経営難となり、せいたちが買収

 

その後も次々と大阪の寄席を買収した

 

そして大阪の文芸界のトップに立った

 

 

第二文芸館を手に入れてからわずか10年のことだった

 

 

東京には有名な落語家が話芸を競っていた

次なるせいたちの野望は、そのような人気落語家を花月に上げることだった

 

大正12年(1923年)9月 関東大震災発生

 

東京は寄席も壊滅状態

 

弟である林正之助を東京へ派遣

18歳で吉本興業部に入り、下足番から働いて寄席の支配人となっていた

 

毛布200枚と大量の米を持って正之助は東京へ向かうと

落語家たちを訪ねては品を渡して歩いた

 

その後、人気落語家たちは次々と花月の高座に上げることになった

 

 

大正13年(1924年)2月 吉本泰三37歳で死去 脳溢血

せいは34歳のときのこと

 

30もの寄席を手に入れるためにかかった

借金30万円(現在の価値で30億円)が手元に残った

 

泰三との間には8人のこどもがいたが

そのうちの4人は幼くしてなくす、という悲しみも味わっていた

 

弟・正之助とともに再出発を誓った

 

 

時代が変化し、落語にかわり漫才の人気があがってきた

昭和3年(1928年)の吉本興業部所属漫才師は48組

 

正之助はコツコツと漫才師をスカウトしていた

 

 

「本人の身になってみなはれ」

5代目・笑福亭松鶴が最愛の息子を亡くし、高座でお笑いなんてできない

と高座に上がらず酒ばかり飲んでいたことで顰蹙を買っていた

せいは周囲にこの言葉をかけてたしなめ、松鶴はせいの対応に助けられ高座に戻ることができた

 

「芸に対する態度が大切なんや」

たとえ大看板の芸人でも、高座で不真面目な態度をとると高座にはあげない

逆に芸に真面目であれば新人でもどんどん舞台に立たせた

 

「病室、また一等にしてや 命より大事なものはないんや」

芸人が病院に運ばれたときにせいが言った言葉。

芸人は病気が治ったら一生懸命働こうと思えた

 

 

昭和5年(1930年)横山エンタツ・花菱アチャコ の漫才コンビ誕生

しゃべりだけで笑わせるスタイルが新しかった

 

それまでは袴に羽織、着流しという服装だったのを背広に

 

ネタも日常会話風にやるというのが新しく支持された

 

 

空前のブームとなり、吉本興業部は業績を上げた

 

そんな中起こったのが「桂春団治ラジオ事件」

 

せいに内緒でラジオに出演した春団治

ラジオでタダで話芸をきかせたら寄席に人がこなくなると判断していたことで

ラジオ出演を禁止していたのだ

 

ところが、実際にはラジオを聞いた人が生で話を聞きたいと

寄席には人が押し寄せた

 

 

昭和7年(1932年)吉本興業部が吉本興業合名会社と改組

 

せいは桂春団治ラジオ事件でメディアの影響力を知ったことにより

レコードを作り、日本の隅々まで吉本のお笑いを届けるという戦略に打って出た

 

レコードを聞いた人が寄席にくる

という好循環が生まれた

 

さらに新聞には芸人の動向を掲載してもらい記事にしてもらえば

広告効果抜群ということで吉本がわざわざゴシップを新聞社に送っていた

 

 

戦争が進む

昭和13年(1938年)新聞社と連携し

「わらわし隊」を結成

 

慰問品をもって戦地へ赴き、兵士たちの前で芸を披露させた

 

 

どんなときでも笑いは人々を幸せにする

 

これを実践していた

 

 

昭和13年(1938年)に大阪・通天閣を買収

事業再生を目指した

太閤さんの次に高いところから大阪の街を眺められる

この景色を大将(吉本泰三)にみせてやりたかった

 

昭和25年(1950年) 吉本せい 60歳で死去

 

朝ドラ「わろてんか」にも取り入れられる吉本せいのエピソード

せいが女中奉公に出た先で

漬物のニオイをなんとかした話・・は

 

「わろてんか」では、籐吉の実家で女中扱いをうけ働いているときに

まさにそのままのエピソードとして登場していました。

 

ということなので、

 

今後も、「わろてんか」にはこの「吉本せい」の人生になぞらえたエピソードが多数登場するものと思われます。

 

 

・・とすると、夫役である北村藤吉郎の松坂桃李さんは

じつはけっこう早くに亡くなってしまうのかもしれません。。

 

 

せいの弟である林正之助・・

わろてんかでは、てんには弟はいませんが

 

おそらく正之助の役割を果たすのは、武井風太役の濱田岳さんでしょう。

 

風太のモデル=林正之助

と思われます。

 

なので、後半は、てんと風太の物語となっていきそうですね。

 

 

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