ひなぴし ドラマ考察

会いたくて、会いたくてふるえるシンドローム。トケルのブログ。

「殿中でござる 」とは?意味、読み方。英語では?忠臣蔵の台詞「天誅でござる」ではない

忠臣蔵のクライマックスといえるシーンの台詞で

「殿中でござる」

 

というのがあります。

 

そもそも「忠臣蔵」がわからない人のためにちょっと説明すると

忠臣蔵とは

赤穂藩主であった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城の松の廊下にて、高家旗本・吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央を斬りつけたことに伴う一連の事件

です。

このあと、浅野内匠頭は切腹、お家断絶を申し渡されるのですが、吉良上野介はおとがめなしになり、それに反発した浅野の家臣たちが吉良に復讐する

 

という流れなのですが、この「赤穂事件」のきっかけになった松の廊下で切りつけたシーンで、浅野を止める人が言ったのが「殿中でござるぞ!」でした。

 

 

これの意味がわからない人・・けっこう・・いる??

いや、わかってる人が多いかな(笑)

 

殿中でござるの意味とは

「城中ですぞ」ということ。

 

つまり、「城の中ですよ」という意味。

 

 

そんなところで人に斬りつけるなんて・・

ということ。

 

 

 

英語だと・・

 

Restrain yourself! You are in the shogun's castle! 

 

とかですかねぇ??

 

It's in the castle!

 

なんていう英訳もされてましたけど・・どうなんでしょ??

 

忠臣蔵、殿中でござる

www.youtube.com

 

ちなみに聞き間違えて「天誅でござる」だと思っている人もいるとか。

 

それは・・倒幕派の志士が保守派を斬る際に使った言葉ではないですかね。

よくはわかりません(笑)

縄文人と弥生人の顔違いチェック、見分け方 耳垢・しみ、現代日本人DNAの何%縄文人由来か?

縄文人系と弥生人系の人がいると言われると、けっこう納得できるのはぼくだけではないと思います。

 

照英とか伊藤英明みたいに濃い感じの人と

岡田将生とか小栗旬みたいなあっさり系の人っていますもんね。

 

昔なら、ソース顔とかしょうゆ顔とか言われたやつですか。

 

 

たぶん、ルーツが違うんですよねきっと。

同じ日本人だとしても

 

南方から入ってきた人もいれば、西の大陸から来た人も、北方から来た人もいる。

海洋国家ですしね日本は。

 

けっこうバラエティに富んでいる気がします。

 

縄文人 vs 弥生人

比較・特徴・見分け方

耳垢・しみ・顔

 

縄文顔とか弥生顔とか言われることがありますが、そもそも縄文人と弥生人ってどんな特徴があるのか…調べてみました。

 

比較することで今日から縄文人と弥生人の見分け方がわかります!!(笑)

 

いにしえより日本列島に住み着いていた縄文人。

以前は、その縄文人が大陸から渡ってきた渡来人に駆逐され、その渡ってきた人たちが弥生人になった・・と言われていたそうですが、現在は少し変わっていて、縄文の血もそのまま弥生時代に受け継がれたと言われています。

縄文人の住む日本に渡来人がやってきて、戦ったというよりは混血が進んでいって現在の日本人になっていったということ。

縄文の血は現代にも受け継がれているんですね・・

これこそが、大陸の中国人や韓国人とは違う「日本人らしさ」を作っているのではないか?という気がします。

顔は弥生人系の人にも、縄文の血は入っていると思います!

 

ちなみに、縄文人はロシア方面から日本列島に渡ってきたらしいですよ。

縄文人は中国大陸の方から来た人たちではないそうです。

 

現代日本人のDNAの何%が縄文人由来か?

東京で調べた結果によると、現代人のDNAの10%が縄文人から受け継いだものという結果が出たそうです。

ただ、やはり地域によって差があるそうで、沖縄の人だと30%、北海道のアイヌの人だと場合によっては70%近い場合があるそうです。

もしかしたら、大陸・半島に近い九州北部だと、もっと低いかもしれないですね。

 

縄文人と弥生人の比較・特徴・見分け方 耳垢・しみ・顔

 

項 目 南 方 系 ( 縄 文 系 ) 北 方 系 ( 弥 生 系 )
身長 背が低い(同年の中で) 背が高い(同年の中で)
体系 ほっそりとしている ずんぐりむっくり
体重 軽い(同年の中で) 軽い(同年の中で)
手足 細くて長い 太くて短い
細くて長い 太くて短い
髪の毛 波状毛(くせ毛) 直毛
頭の形 長頭(前後に長い) 短頭(丸い)
顔の形 角形で彫りが深い 面長でのっぺり
大きく丸い 小さく細い
二重 一重
蒙古襞 ない ある
左目つぶり うまい へた
高くて長い 低くて広い
耳たぶ 分離型(福耳) 密着型
耳垢 ウェット型(湿っている) ドライ型(乾いている)
厚い 薄い
髭や体毛 濃い 薄い
体臭(腋臭) ある ない)
指紋(三叉数) 少ない(11以下) 多い(12以上)
血液型 O型 A型


群馬県立自然史博物館より
群馬県立自然史博物館 Gunma Museum Of Natural History

 

部位 縄文人 渡来系弥生人
顔全体 ・幅が広く(横長)四角い ・彫りが深い ・上下に長い ・のっぺりしている
比較的大きい 鼻幅が細く低い
二重 一重(厚い)
厚い 薄い
歯のサイズ 現代人より小さい 現代人より大きい
噛み合わせ 上下の歯がぶつかり合う 上の前歯が下の前歯に覆い被さる(現代人と同じ)
身長(推定平均) 男性:158cmぐらい 女性:148cmくらい 男性:164cmぐらい 女性:150cmくらい
体毛 濃い(眉毛も濃い) 薄い


弥生ミュージアム
弥生ミュージアム

 

縄文人の特徴はこちらでも解説されていました。

「縄文人ってどんなヒト?」(くらし☆解説) | くらし☆解説 | 解説アーカイブス | NHK 解説委員室

・肌の色が濃い

・シミができやすい

・お酒に強い

・髪の毛は細い、巻き毛

・目の虹彩は茶色

・耳垢は湿っぽい

・高脂肪食に適応

 

縄文系の人々は暖かいところに住む人々の身体と似ている
弥生系の人々は寒いところに住む人々の身体と似ている

そうです。

 

見た目の比較、絵で見たい場合はこちら↓↓↓


縄文人 弥生人 比較 - Google 検索

 

 

現代でいうと、


弥生系の遺伝子っていうのは、基本的に近畿地方を中心とした日本の中心部に多く
北海道であるとか、あるいは沖縄なんかには逆の遺伝子(縄文系)が多いだろうといわれているらしい。

 

しみの出来やすさにも違いあるというニュースがあり・・・

 

「できやすい=縄文型」「できにくい=弥生型」だそうです。
シミのできやすい縄文型の遺伝子はヨーロッパやインドに、シミのできにくい弥生型は東アジアに多く存在し、これは縄文人、弥生人のルーツともマッチするそうです。

 

弥生型と縄文型、あとその2つの混合型があるそうですが、
縄文型と弥生型では、シミのできやすさに最大でおよそ4倍も違いがあり、混合型の30代と弥生型の40代のシミのリスクは同じレベルらしい。

 

ほ〜〜。縄文肌と弥生肌っていうのかな。

 

日本人って

二千年前それ以上前どういう人たちだったかを考えると、
ロシア・シベリア方面の北のほうまで含むユーラシア大陸・アジアから、そして南洋の島々から集まってきた人たちが血を混合していく中で生まれた民族・・・なんですね。

なるほど。

 

縄文人と弥生人の比較

https://www.youtube.com/watch?v=DrBP33PO1EA

 

1石はいくら何円?量・価格・値段、単位、面積、一石の意味とは?

 

1石はいくら何円?価格・値段、単位、面積、お米何キロ、重さ、kg

 

加賀100万石!

とか、歴史ドラマなんかをみてると聞きますよね。

 

戦国時代の大名の力を示したり、江戸時代の藩の大きさを示すものとして「何万石(まんごく)」という単位が出てきます。

 

この「石(こく)」「一石(いっこく)」っていう単位

よく聞くわりには、全然どれくらいなのか知らない・・

だいたい、現代ではほとんど使ってるの聞いたことないですしね。

 

お米の量を表してるんだろうなーぐらいはわかっても

じゃあ、100万石っていくらぐらいなの?!っていう。

 

ということなので、調べてみました。

 

武士の家計簿

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大名とか、武士の家臣に対する

給料の額を表したものって思っておけばいいんですかね。

 

ただ、本来は「体積」を表す単位だそうです。

なので、「米がどらくらいの量あるのか」を示す単位ですね。

 

 

1石は何合なのか

1石=10斗=100升=1000合

だそうです。

 

これは、成人1人が1年間に消費する米の量とほぼ等しいとみなされたと。

1日1人、約3合食べる計算なんですね。

現代だったら・・まあ、そんなに食べてないですよねー。

パンだったり、麺だったりを食べますしね。朝・昼は。

 

 

1石は何kgなのか

1合=約150g

なので

150g✕1000合(1石)=150kg

ということで

1石=150kgだそうです。

 

一石はどれくらいの田んぼの面積?(概算)

一石を広さでいうと「一年に大人が食べる米の量を収穫できるだけの土地の広さ」となると思います。

1石の米を作るのに必要な土地の面積を「1反」といい

1反は300坪です。(太閤検地のあとから、それまでは一反=360坪)

 

300坪=約1000平方メートル=10アール=0.1ヘクタール

 

一人が1日に食べる米の量を生産するのに必要な面積はだいたい、一坪、3.3平方メートルなんだそうです。

 

じゃあ、一万石はというと

3000000坪=1000万平方メートル=10平方キロメートル

つまり、3.3km四方の正方形の田んぼ(土地)が1万石ということになりますね。

 

思ったより広くないように感じるかもしれないですが

この広さの田んぼで、ちゃんと収穫できる、って考えたら、江戸時代より前だとそれなりの土地じゃないと無理だったでしょうね。

土地があればなんとかなる、ってもんではないと思います。

 

現代の金額だと、1石はいくらなのか、価格・値段

現代だと・・

お米10kg=約5,000円としましょう。

そうすると、

1石は150kgなので

5,000円✕15=75,000円

 

1石=75,000円

 

ということは・・自分の年収を石高に直すと??(笑)

 

現代の金額     石高

 

100万円    13石
200万円    27石
300万円    40石
400万円    53石
500万円    67石
600万円    80石
700万円    93石
800万円   107石
900万円   120石
1000万円  133石

 

こんな感じですね。

 

じゃあ逆に

 

加賀100万石はというと・・

 

750億円!!!

 

だそうです。

 

すごいですね(笑)

 

ちなみに今の加賀国・・石川県の歳入は、約5,000億円以上あるみたいです。

そう考えたら・・まあ・・

 

 

1両=1石の米が買えた

「1両」というお金で1石ぐらいの米が買えたそうです。

ちなみに、1両の価値は・・

 

だいたい、現代のお金で

12万円〜13万円ぐらいじゃないかと。

 

そうなってくると、1石の価値も変わってきちゃうんですけどね。

 

ただ、農村に暮らす庶民にとっては

お米にお金のような価値があったわけで

今とは感覚が全く違う、というのもあるし、

 

そもそもお米っていうのは入手しやすいところかどうかでも

価値が変わってしまうもの。

米が欲しい!と強く思ってる人にとっては価値が高いし

米はたくさん持ってるという人にとっては価値は低い。

 

ということで、一概に、単純にいくら

というのは難しいってことですね。

 

 

ただ、重さから考えて

現代でそれだけの米があれば

だいたいこれぐらいですよーっていう意味でいうと

 

上の計算の

 

1石=75,000円という考えで良いと思います。

 

 

大名と呼ばれるようになる「1万石」で

7億5000万円の収入。

 

その収入から家臣の給料を出して・・

半分ぐらいが懐に入るとして

 

3億7,500万円

 

今でいう、日本の大企業の社長よりもよっぽど多いですよね。

海外の大企業だと10億ぐらいもらってそうですけど。

 

日本のプロ野球選手で、かなりトップクラスの人が

昔でいう、ぎりぎり大名と呼ばれるクラスだったわけですねー

チンギスハン(ジンギスカン)の墓は今も見つかっていない、その理由は?

モンゴルの偉大な王、

チンギス・ハーン

 

かなり広大な領土をおさめた

今もモンゴルでは英雄として讃えられている人です。

チンギスカンとモンゴル帝国 (「知の再発見」双書)

ちなみに

最近だと「チンギス・カン」と呼称されることが多いみたいです。

 

あれ?でも昔はよく「ジンギスカン」って聞いたし

でもチンギス・ハーンのような、チンギス・カンのような・・

 

ということで、

名前についてはこちらで詳しく書かれてます。

 

チンギス・カン - Wikipedia

 

この、チンギス・カンさんのお墓って

そういえば聞いたことないような・・

 

あれだけ有名な人のお墓を、誰も知らないなんてことは・・

やっぱり後の時代の人に盗掘されてたりするのかな・・なんて思ってたんですが

 

と思ってたら、NHK−BSプレミアムで

東出昌大さんがモンゴルにいって撮影した

「史上最大の謎 チンギス・ハンの墓 〜俳優・東出昌大がモンゴルの大地を行く〜」

という番組が放映されてました。

 

 

「史上最大の謎」ということで

実は、いまだにみつかってない

 

というか、むしろ完全に隠されていたということを初めてしりました。

 

まあ、もともと世界史とか外国の歴史にはうといので

よく知らなかったんですけど。

 

 

とにかく埋葬されたときから隠されていたみたいで、今もわかっていない。

 

 

でもそうはいってもどうやって隠してたのか・・という点について

この番組で言ってました。

 

まあ伝説の1つということみたいですが。

 

 

隠すために

チンギス=ハンの葬列、埋葬するために運んでいた際、

それを目撃した人や関わった人を次々にころしていったとか。

 

なるほど・・そういう方法で隠したわけですか・・。

 

 

さらに、昔のモンゴルでは、埋葬されたあとに

それを隠すために、墓標など立てず、

埋葬したところを馬で踏み固めて、完全にわからなくしていた

という話もあるみたいで。

 

馬1,000頭で踏み固めた

という話も残ってるみたいです。

 

 

そこまでして頑張って隠している王の墓ですから

 

今のモンゴルの人たちも

「成吉思汗(チンギス=ハン)の墓は暴かないでほしい」という気持ちをもっているみたいです。

 

つまり、こういう気持ちでいる人がけっこういるということは

その時代にも知っている人がいたとしても、誰にも言わずにこの世を去っていったのかもしれません。

 

もしくは、誰かには伝承されてたりして・・

 

 

とはいうものの、チンギス・カンの霊廟などはみつかっているようで

きっとその近くであろうというところまではある程度予想がついているとか。

 

その発掘には日本の研究チームも関わっているみたいです。

 

 

チンギスカンの墓がわかることはきっと

世紀の大発見と言えると思います。

 

生きてるうちに・・みつかったら、いいなぁ〜〜

#西郷どん 悪人説 悪事一覧 #西郷隆盛 がやった悪いことを書き出してみる(噂も含む)

どんなに英雄と言われていても、神ではないので。

 

全てが「聖人」のように振る舞えるということはないと思います。

人間なら、誰しも悪いことの1つや2つ…ありますよね??

 

幕末の英雄・西郷どんにもおそらくそういう悪事があるであろうと調べてみることにしました。

 

だからといって西郷隆盛が悪人だった、というわけではないのですが…😓

 

まあ、人によっては「悪い人だ」と思った人もいたかもしれないですね。

 

倒された幕府側の人はみんなそうだと思いますし。

 

なので、伝わっている「悪いこと」も事実かどうかはわかりません。

 

西郷隆盛は最終的に反政府軍として戦っていますから、その時に「悪いやつだ」と噂を立てられた可能性もあります。

 

 

なので、これから書くことは事実ではない可能性が結構ある、ということは前提として認識をお願いします。

 

ただ・・けっこう悪いこともやってます西郷どん!

NHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、このあたりはどのように描かれるのでしょうか・・?

 

 

 

 月照とは心中、一緒に死のうとしたのではなく西郷が殺した疑惑

もし西郷が殺していたとしても、実はそれほど悪くはないと言えそうなんですけどね。

薩摩藩からは月照のことを「日向送り」と命じられていたそうです。

日向送りとは現在の宮崎県である日向国へ行かせるということなのですが

裏の意味では、「薩摩と日向の国境で殺せ」という意味だったそうです。

 

つまり、薩摩藩は西郷に「月照を殺せ」と命令していたわけで。

ただ、通説では西郷は月照とともに死ぬことを選んだということになっていて

一緒に死のうと共に海に飛び込んだ、という話になっています。

 

旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめた『南洲翁遺訓』に

「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。月照が舟の舳先に出て小便をしているところを、後ろから自分が抱き込んで飛び込んだところ、月照のみは死し、自分が生き残ったのは、至極遺憾なわけである」

 

との記述があるらしく・・

この内容をそのまま受け入れると

 

小便をしていた月照(どう考えても死のうとしてない)

に後ろから自分が抱き込んで飛び込んだ

結果、月照だけが死に、自分は生き残った

 

これだと、死にたいとは思っていない月照を西郷が殺したことになりますよね(^o^;

 

西郷は「死にたい」と思っていたのかもしれません。

なので、その後「自分だけ生き残ったこと」を悔いる話をしている逸話も残っています。

しかし上の文章をみると明らかに「殺しにかかっている」ようにもみえるんですよね・・

 

僧侶を殺す、という悪行を働いたことに・・

まあ、藩の命令ではあったんですけど。

 

 

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

 
工作員・西郷隆盛 謀略の幕末維新史 (講談社+α新書)

工作員・西郷隆盛 謀略の幕末維新史 (講談社+α新書)

 

 

西郷どん -メインテーマ-  音楽:富貴晴美

西郷どん -メインテーマ- 音楽:富貴晴美

  • 下野竜也指揮 NHK交響楽団 歌:里アンナ
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  • ¥250
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生涯不犯(一生女性とは交わらない)を誓ったのに男色するわ結局女遊びするわ

西郷隆盛は「生涯不犯」を誓っていたそうです。

要は、女性とは一生交わらないという誓いです。

 

これはなぜ誓っていたかというと、尊敬する自分を見出してくれた主君・島津斉彬に子ができることを願ってのこと。

生まれてくる子がことごとく3歳ぐらいまでに亡くなってしまうという不幸に見舞われていた島津斉彬に子ができるように祈願してのことだったそうです。

 

ちなみに、島津斉彬が亡くなったときには西郷は殉死しようとしたと言われています。

このとき、西郷が殉死しようとしたのをとめたのが月照と言われています。

命の恩人ですよね・・月照さん。

なのに、殺してしまうという(^o^;

これはやっぱり罪な気が。。

 

そして、実は月照さんとは「男色」の関係であったという噂もあります。

えっと・・女性とは交わらないけど、男ならOKって(笑)

それもどうなの!?という。

このボーイズラブ的な展開は、大河ドラマ「西郷どん」でも取り入れられそうな予感です。

 

戦国時代の武将の話ではよく「衆道」のことが出てきます。

男性同士の性的関係です。

ですが、これぐらいの時代になるとおそらくその傾向は減ってきていたと思うのですが

どうやら薩摩ではこの衆道をたしなむ人が比較的多かったとか。。

 

まあ、武人気質が多かったということで、昔の武将にならって、というのもあるかもしれませんし

そもそも薩摩は男尊女卑の傾向が激しかったそうなので(今でも、と言われていますが)男と交わることが崇高というような考えもあったのかもしれません。

 

ということで、薩摩ではめずらしいことではなかったようです。

 

ですが・・(笑)

女性とは交わらない!しかも一生!と言ってる人が

男ならいいんじゃない!?っていうのもね・・(笑)

 

 

ま、考えは変わるとは思いますが・・

「一生交わらない」と言っておきながら

 

でも西郷隆盛って子供がいたよね?たしか・・

 

そうなんです。結局女性とも交わってるんですよ(笑)

結婚もしてますし。子供もいますし。

 

まあ別に犯罪ではないので、これを悪事というのかはわかりませんが・・

 

ちょっと意外というか

言ったことをそんなに簡単に翻しちゃうの?という疑問はありますよね(笑)

 

島妻制度で結婚して愛加那を置き去りに

奄美大島へ流されたとき・・斉彬が亡くなってほんの数年で

愛加那という人と結婚しています。そこで子をもうけています。

 

「島妻制度」というのが薩摩藩法で定められていたそうで

島妻制度とは、島にいる間だけの伴侶をもつことを許される制度だったそうです。

正式な結婚ができるものの、島を出るときには連れていけないというもの。

 

この愛加那さんは本当に気の毒な方で

西郷が呼び戻され島を出ることになったときには「共に行こう」と準備をしていたそうですが

「島妻制度があるから行っても追い返されてみんなに迷惑をかけるだけ」と祖母から説得され、結局島に残ることになったそうです。

 

まあ、一応認められていた制度の中での話ですから悪事といえるかどうかは微妙ですけど、愛加那さんにかなり辛い思いをさせたことは間違いないと思います。

 

愛加那と子供の生活が成り立つような手配はしてから去っていったそうですけどね西郷。

 

ちなみに、西郷と愛加那の間にできた子については、のちの西郷の3人目の妻となるいと夫人によって西郷家に引き取られることになり、西郷家の人間としてそこで教育を受けることになります。

 

その子である菊次郎は父とともに西南戦争に従軍するも怪我が原因で投降し命は助かります。

その後、西郷従道が引き上げて、台湾支庁長や京都市長を歴任したと。

 

うーん・・西郷従道や、いと夫人こそ「良い人」なんじゃないかという気が(笑)

 

愛加那さんは西郷と会うことは全くかなわず、子も手元を離れ非常にさみしく暮らしたとか。

台湾と日本を行き来する菊次郎がたまに島によってくれることだけが楽しみだったといいます。

 

まあ、薩摩の人にとっては「女性は格下」という意識が強かったということなんでしょうが

この話を聞くと、現代の女性で「西郷隆盛がイイ」という人がいたら

ちょっと「え?」と思いますよね・・(^o^;

 

さらに妻がいながら肥満女性2人にハマる

そして、「生涯不犯」を誓った男は、結局女遊びにもハマります。

いやいや、もはや、誓い破りまくりじゃないですか(笑)

まあ、「生涯不犯」を誓って願ったのに、主君の子は思うように健康ではいられなかった・・だから・・というのもあったのかもしれませんけど(^o^;

「一生」って誓ったら、そりゃうまくいこうがいくまいが「一生」守らなきゃダメでしょ(笑)

 

奈良屋というお茶屋の仲居のお虎

祇園の川端井末の女将お末

 

という二人の女性に言い寄るんです、妻がいながら。

もはや、この人ダメな人です。

 

・・とはいいつつ、この時代の有名人はみんな愛妾を囲っていたらしいんですけどね。

 

これは直接的には関係ないんですが

この二人、二人ともかなり太っていた女性だったとか(笑)

 

つまり西郷隆盛はデブ専だったんです(笑)

デブ専は悪事ではありませんが・・(笑)

 

「お虎の身体は最高」とか触れ回っていたそうですから

この人、本当にダメな人ですよね(笑)

 

薩摩御用盗というテロ集団に江戸で強盗・殺人・強姦・放火などを行わさせる

徳川慶喜が大政奉還をして、平和に政権移行を行うことができる可能性があったにもかかわらずやはり武力討伐をとこだわったことも悪事と言えるかもしれません。

 

また、勝海舟との江戸城無血開城の取り決めでも

その後に新政府軍に反発する藩を討伐することを勝に認めさせ

東北諸藩との戦争をそのまま継続したのも西郷隆盛。

 

「江戸を戦禍から救った」とも言われていますが

それは勝海舟が「そうしなければ、自分たちで江戸に火を放つ」と逆に西郷にやり返したからではないかとも言われています。

(経済の中心地である江戸の街を新政府は接収したかったので)

 

ただ、実はその前に、西郷隆盛の命令で

実にひどい犯罪が江戸の街では行われていました。

 

「薩摩御用盗(さつまごようとう)」です。

 

大政奉還が起こったあと、旧幕府の武力討伐を行うため

旧幕府側から戦争をしかけてくるよう仕向けるために行ったと言われています。

 

テロ集団をつくり、

 

・江戸市中で強盗・殺人・強姦・放火などの犯罪を行う

・大店を次々に襲って、家人らを殺害し、大金を強奪し軍用金とする

・江戸城の二の丸に放火

 

こういったことを、江戸の薩摩藩邸を根城にして行わせたというもの。

 

これが元で、鳥羽・伏見の戦いが起こったとされています。

 

 

ただ、最近の研究では、この薩摩御用盗には

西郷隆盛は関わっていないのではないか?というものもあります。

 

うーん・・もし関わっていたのなら・・

これは完全に悪事です。

 

最悪の犯罪者ですよね。

 

 

これもある説ですが、

西郷隆盛という人物は薩摩藩の裏工作を行う部隊のトップだった

という話があります。

 

だとすると・・こういうことやっててもおかしくはないですよね。。

目的のためなら手段は選ばないという非情さ。。

 

 

西郷隆盛という人物は、そもそもは

「日本をなんとかしたい」よりも「薩摩藩が日本の中心になるように」と考えて行動していた人物のように感じるところもありますしね。。

 

勝海舟と話をしてから「薩摩がどうこう言ってる場合ではない、日本をなんとかすべき」という考えにあらたまったとも言われています。

 

そうなると、幕臣だった勝海舟の考えの方が、よっぽど進んでる気がします。。

 

 

 

他の悪事として「坂本龍馬の暗殺、黒幕は西郷隆盛(薩摩藩)である」

というような話もありますが

最近の研究では、これは否定されているようです。

 

京都見廻組の犯行で、松平容保あたりの命令ではないかということらしく。

 

西郷は坂本龍馬が死んだときに「なぜ守ってやれなかった!」と土佐藩に抗議した

という話もありますしね・・

 

 

ただ、こうやって調べてみて

やっぱり西郷隆盛という人は「よくわからない人だ」と思いました。

 

たしかに成し遂げたことには評価されるべきこともありますが

坂本龍馬も、ざっくりいうと「相手に合わせる人間」というような評価をしていますし。

 

まあこれは良い意味でも、悪い意味でも取れる評価なんですけどね。

 

 

西郷が西南戦争を起こした逆臣として貶められていたのを

再評価して持ち上げたのにも、なんというか結局政府の何らかの目的があったような気がします。

 

もしかしたらそこまでの評価ではなかったものの

庶民の人気を集めるためにそういうヒーローを作り出したとか。。

 

 

良い人だったのか、悪い人だったのか。

英雄だったのか。人からの指図や圧力によってしか動けない凡人だったのか。

 

うーん。。どうなんでしょ?

西郷隆盛・西郷従道 名前の由来 兄弟は間違えられてその名前になった説 #西郷どん

西郷隆盛、西郷従道は、NHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では

 

鈴木亮平さんと、錦戸亮さんが演じています。

 

初回の放送では、いきなり年老いた西郷従道を演じる錦戸亮さんが出てきましたよね。

 

上野の西郷隆盛像の話からスタートで、

現代の映像から始まったので、ちょっと意表を突かれました。

 

 

西郷隆盛、従道の兄弟は

明治維新後の日本でも活躍するのですが

 

この2人にまつわる面白エピソードがありましたのでご紹介します。

 

 

それは「間違えられて、その名前になった説」です。

 

 

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

 
2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」完全読本 (NIKKO MOOK)

2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」完全読本 (NIKKO MOOK)

 

 

 

西郷隆盛の本当の名前・本名は西郷隆永

実はいくつか説があるみたいですが

「間違えられて」

隆盛/たかもり(りゅうせい)

という名前になったようです。

 

 間違えられてって、なんで変更しないの??とちょっと疑問に思うところもありますが…

 

昔は、

本名の下の名前は「諱(いみな)」といって

親や先生など、特別な関係の目上の人からしか呼ばれなかったそうなので

 

その名残で、ある意味、「下の名前」はどうでもいいと思ったのかもしれないですね(笑)

明治が始まって、新しい戸籍ができるにあたりちゃんと登録された本名だと思いますが、

それまでの慣例上、周りの人も本名では呼べなかったでしょうし(諱で呼ぶことは失礼に当たるとされていた)

 

基本的にはみな通称で呼ばれていました。

西郷隆盛の通称は「吉之介(吉之助)」のようです。

 

 

では、西郷隆盛の本名・・本当の名前は何だったのか、というと

「西郷隆永」というそうです。

「たかなが」か「りゅうえい」かは意見が分かれると思いますが・・(^o^;

 

この、名前を音読みで読む方法は「有職読み(ゆうそくよみ)」と言われるものだそうです。

 

本当の読み方は訓読みだとしてもあえて音読みで読むという・・

 

木戸孝允(きどたかよし)なんかも、「きどこういん」と呼ばれていたりします。

 

これは上にも書いた「諱」つまり本名の下の読み方を呼ぶのは失礼にあたる

という考え方から、とくに明治初期には行われていたようで

その頃の人物で、よくこの有職読みがされている人名が多いです。

 

おそらく、明治初期に戸籍ができて「名前の登録は1つ」となり

それまで一般的に諱(下の名前)を呼ぶかわりに使われていた「通称」が使えなくなってしまったため

みんな本名の下の名前をしっかり登録することになったわけですが

 

だからといって、それまで「下の名前を呼ぶのは失礼」としてきたのに

急にその名前を口に出すのは憚られる・・ということで

おそらく、この有職読み、つまり音読みでの読み方が広がったんじゃないかということだそうです。

 

あとでも紹介する西郷の弟、西郷従道も

「さいごうつぐみち」ではなく、「さいごうじゅうどう」といいますしね。

 

あ、ただ、西郷従道の場合は「じゅうどう」がそもそも正しい読み方だ、

という話がありますが。

 

 

話を西郷隆盛に戻して。

 

元服したときの諱(下の名前)は「隆永」(たかなが)だったそうです。

 

では、なぜ西郷隆永という人が「西郷隆盛」になったのか

というと、

 

それは人に間違えられて登録されたから

なんだそうです(笑)

 

これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

西郷隆盛 - Wikipedia

 

つまり、親友の吉井さんが、西郷の名前をどうしても思い出せず

考えに考え抜いて思い出した名前「隆盛」を届け出てしまった。

 

しかしそれは、吉井さんが知っていた別の人の名前

つまり、西郷の父の名前だったという(笑)

西郷の父は通称吉兵衛で、諱が隆盛でした。

 

おそらくですが、西郷としては

・親友の顔をつぶすことはしたくない

 

という思いと、天皇からの命令で使われる名前なのにそれを変更するというのは恐れ多いという思いから、そのまま変更しなかったのではないかと思われます。

 

そして、それ以降、西郷隆永は西郷隆盛として生きていくことになりました(笑)

まあ、やっぱり、本人はどうでも良かったのかもしれないですね。

ほとんど通称吉之介で呼ばれていたんでしょうし。

 

それにしても、お父さんと同じ名前になるって(笑)

 

西郷従道の本当の名前・本名は西郷隆道

 

そして西郷家の面白いところは

弟の西郷従道も、実は間違えられてその名前になっているというところ(笑)

 

兄弟そろって同じ逸話を持っているという不思議(笑)

 

明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した。兄の隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父親である西郷吉兵衛の諱であるが、兄の同志であった吉井友実が勘違いして父の名前を登録してしまったものである。隆盛、従道というのは諱であり、日常使用するのは通称(隆盛は吉之助、従道は信吾)であった。

西郷従道 - Wikipedia

 

元の本名は「隆興」(たかおき・りゅうこう)だったとする説もあり

どちらが正しいかはわかりません。

 

自分で登録する際に「りゅうどう」と言ったということなので

西郷従道さんの場合は、「じゅうどう」が正しい読み方と言えるかもしれないですね。

まあ、戸籍には「読み方」というのは登録されないそうなので

何が正しい、というのも無いとは思いますが。

(これは現代でも同じようで、出生届を出すときに「ふりがな」欄はあるようですが、戸籍には登録されず、手続き上で使われるだけ、と記載されているそうです。おそらく並べ替えする際等に使われているということなんですかね)

 

 

もしかしたらですが

西郷隆永を西郷隆盛と間違えた吉井さんも

間違えてお父さんの名前を言ったのではなくて

 

「さいごうりゅうえい(西郷隆永)」と有職読みで聞いていたのを

「さいごうりゅうせい(西郷隆盛)」と聞き間違えてしまって

西郷隆盛で伝えてしまった

という可能性もありそうです。

 

 

いずれにしても、

NHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」第一話が終わって

「薩摩弁がきつすぎて何を言っているかわからない(笑)」

「字幕は標準語にしてほしい(字幕も薩摩弁)」

 

という意見がTwitterで出まくっているところをみると

やっぱり聞き取りが難しい言葉ではあるみたいですね〜鹿児島弁(^o^;

 

 

西郷従道って、

なんで、西郷隆盛とまるっきり違う名前なのかな?とずっと疑問ではありました。

 

もしかしたら、最終的に反政府軍として戦った兄とは別だと主張したくて

あえてそう名乗っていたのか?等と想像しておりましたが・・

 

全く違うようです(^o^;

 

 

この「名前間違い」

NHK大河ドラマ「西郷どん」でも描かれますかね??

毒殺が疑われる源頼朝・足利義満、厠で死んだ上杉謙信、健康オタク伊達政宗の死因とは?

BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「偉人たちのカルテ」

2017年10月9日放送 #130

の内容まとめ・書き起こしです。

 

毒殺が疑われる歴史上の人物、果たして本当に殺されたのか?

健康オタクだったのに死んでしまった武将の死因とは??

www.bs-tbs.co.jp

 

田辺誠一さんがナビゲーターの番組です

にっぽん!歴史鑑定司会の田辺誠一主演連続ドラマW 撃てない警官 [DVD]

連続ドラマW 撃てない警官 [DVD]

 

 

 

源頼朝の死因とは?

 

源頼朝は平家政権を倒し、鎌倉幕府を開いた初代将軍です。

 

頼朝の死の様子は・・

 

建久9年の冬、武蔵の国で行われた橋の開通式の帰り

落馬してしまう

ひどくショックを受けたそうだが、たいしたケガはなし

 

落馬してから2週間後、ひどい頭痛と吐き気を訴え

そしてなくなってしまう

 

53歳

 

亡くなる前日まで元気だったので、不審がられた

 

鎌倉幕府の将軍っていうのは次々死んでいるようなイメージがあります。

「源家」の人間で将軍になったのはおそらく数人しかいないので

「殺された」ようなイメージがたしかにつきそうですよね。

 

頼朝の死については3つの説があるようですが・・

 

1.亡霊説

南北朝時代に書かれた歴史書「保暦間記」

「安徳天皇らの亡霊をみて気を失い病に倒れた」

当時は亡霊や祟りが強く信じられていた

→信憑性なし

 

2.毒殺説

鎌倉幕府編纂の歴史書「吾妻鏡」

頼朝の死から3年間の記述がなく、頼朝の死を隠したい何者かの隠蔽工作では?と言われている

首謀者は北条氏では

ヒ素が使われた

ヒ素は中毒になると消化器系の症状が出る可能性はあるが

まだ鎌倉幕府が安定していない時期に頼朝を殺すことに北条氏はメリットがないとかんがえられる

→可能性がゼロではないと思われますが・・

 

3.糖尿病説

五摂家の1つ近衛家の日記「猪熊関白記」

頼朝卿 飲水の重病により

という記述があり、重い飲水病を患っていたことがわかっている

飲水病とは今で言う糖尿病

大量に水をのみたがるため、飲水病と名付けられた

突然体調不良を訴えているので、可能性は低い

→糖尿病であったであろうとは思われるが、それが原因で死んだとは断定しづらい

突然症状が出て死んでいるため、死の原因は別にありそう

 

そこで、現代医学から検証するとおそらく

 

やはり落馬に原因があると思われる

「慢性硬膜下血腫」ではないか

 

コブができるかできないかという軽い頭部打撲のあとに起こる病気で

頭部打撲のあと2〜3週間後に症状が出て来る

 

頼朝の症状にぴったりとあてはまる

 

頭を打った際から徐々に血がたまっていき

場合によっては牛乳瓶1本分ぐらいになる可能性がある

 

兆候は?

頭痛、歩行困難、手のしびれ、認知症

 

血腫が大きくなると、脳幹を圧迫して死に至る場合がある

 

現代であれば手術は可能

 

ということで、やっぱり落馬が原因だったのではないかとのことでした。

まあそれを利用して、毒殺されている可能性も、頼朝の場合は否定できなさそうなんですが・・

「頭を打った」場合、その時は大丈夫でも、あとからこういうことになる可能性があるというのは現代人も知っておいた方が良さそうです。

 

早めにちゃんと病院で調べてもらった方が良いでしょう。

 

 

足利義満の死因とは?

室町幕府3代将軍です。

室町幕府の黄金期を築いた将軍。金閣寺を築いたひと。

側室10人以上、こどもは20人以上いた人で身体は丈夫そうですが・・

応永15年義満は51歳で死去しています。

 

義満も毒殺を疑われたようですが・・

 

1.風邪説

山科教言「教言卿記」(のりとききょうき)に次の記録がある

応永15年4月27日

義満が体調不良を訴える

4月28日

ひどい頭痛を発症

侍医の坂士仏の診察を受ける

「流布の病」=風邪

4月29日

回復の兆しをみせる

5月1日

再び悪化、面会を拒否するほど

5月4日

危篤状態になる、夕方には持ち直す

5月6日

容態が急変、午後6時頃、そのまま息をひきとる

 

体調が悪くなったりもちなおしたりを繰り返している。

 

風邪だとしたら、肺炎や高熱により命を落とすことがあるが

容態がよくなったりしているので考え難いそうです。

 

 

2.毒殺説

毒殺なら、体調不良を訴えてそのまま死ぬはず。

体調不良から8日後に亡くなっている

途中で少しよくなることは考え難いそうです。

 

 

現代医学からみると、くも膜下出血の可能性が高いとのこと。

くも膜下出血は、血管に生じたコブが破裂することによって起こる

一度小さく破裂したコブが咳き込んだり力んだりすることで血圧が上がり

二度目の破裂を引き起こすことがある

突然死を引き起こす代表的な病気

初期症状は頭痛

吐き気や嘔吐、微熱

二度目の破裂では大出血をともなうことがある

 

一度破裂して落ち着いたコブが再度破裂したと考えられる

 

くも膜下出血は風邪の症状と似ているので、現代人も注意する必要あるそうです。

 

 

トイレで倒れていた上杉謙信の死因とは?

食生活はストイックで、粗食

肉は一切食べなかったとか。

 

家臣たちに生活規範を示した

「不識庵家中日用修身巻」

食事調菜二種を過ぐるべからず

=おかずは2種以上とるな

 

死んだ時の状況は・・

軍議のあと、酒を飲んでいた謙信

厠へ立った謙信が戻ってこず、家臣が様子をみにいくと

謙信が厠の中で倒れていた

その4日後に死ぬ

(天正6年)

 

1.虫気説

上杉景勝が家臣にあてた手紙では

「不慮の虫気」と書かれている

 

虫気とは腹に入った寄生虫によって腹痛を起こす病

 

謙信は寄生虫で死んだと考えられていた

 

寄生虫は最終的には排泄物とともに体外に出るため

よほどのことがないと寄生虫で命を落とすことはないと思われる

 

 

2.梅毒説

 

梅毒トレポネーマという細菌によって発生する病気

戦国時代に流行

主に性交渉で感染する

謙信は30歳のとき、足に腫れ物ができ、それが悪化

6年後には歩行障害が起こっていた

これが梅毒の原因ではと言われている

梅毒第4期の症状にあるが、第4期は認知症等も伴うため

梅毒ではないと思われる

 

 

3.脳卒中説

 

上杉家の公式記録「謙信公御年譜」

中風=脳卒中に見舞われていたという記述あり

脳血管疾患の総称

脳内出血、くも膜下出血、脳梗塞も含まれる

戦場でもたびたび脳卒中の症状に見舞われていた

41歳のときにも脳卒中の発作を起こしていた

その後、手に軽い麻痺が残ったとされる

その原因は、酒

 

 

大の酒好きで、梅干しや味噌など塩分の高いものをつまみに酒をあおっていた

高血圧を発症していたと考えられる

寒さで高血圧が悪化し動脈硬化が進行していたと思われる

寒さによって血管が収縮、酒をあおって高血圧に

倒れてから数日後に亡くなったという状況から、脳梗塞の可能性が高い

 

上杉謙信は「短気をなおして健気に生きたい」と言っていたそうなので

血の気が多そうで(笑)高血圧っぽいですよね。

いや、塩分の取りすぎで、そういうふうになってしまっていたのかもしれません。

 

 

健康オタク・伊達政宗の死因とは

 

幼い頃に重度の天然痘で右目の視力を失った政宗ですが

この時代の人にしては長生きでした。

徳川家光が将軍の時代まで生き延び、「戦国の生き証人」として将軍に昔のことを語って聞かせるような役目を果たしていたと聞きます。

 

寛永13年 70歳で亡くなった

亡くなる際

少年の頃から度々死地を逃れてきたが今のように畳の上で死ねるとは思わなかった

と言ったそうです。

まあ戦場での窮地もありましたし、秀吉に首をはねられそうになった事件もありましたからね・・(小田原城・北条攻めに遅れていってしまった)

 

健康オタクだった政宗の健康法

 

1.運動

剣術、馬術、川狩り(魚とり)

 

2.清潔好き

運動後には必ず身体を拭き、家臣にも行水を奨励

 

ごまや大豆などの食品を好んで食べ、塩分等にも気をつけた食生活を送っていた

料理も自らすることがあったぐらい、食事には気をつけていた

 

水をたくさん飲み

 

昼寝もする(座って寝るのは血流が滞ってよくないからと必ず布団で横になって寝る)

 

独眼竜推脈

推脈といって、みずから脈をとり、血圧等を調べていた

 

 

日光東照宮で倒れるが、病をおして江戸にむかい徳川家光に会う

 

政宗の死の原因として推測されるのは「喫煙」

 

南蛮貿易の際、「万能薬」として広まっていた

政宗は1日3回、必ず吸っていた

酒も飲んでいたため、酒+たばこにより

食道がんや胃がんの発症が高まっていた

 

死の1年前からみぞおちに痛みがあったり食中に吐き気があったり

腹部の膨張によって胸の下が117cmも腫れ上がっていたとされる

 

よって、死因は「胃がん」

 

 

「万能薬」として信じていた政宗は喫煙を日課にしていたそうなので

今で言うヘビースモーカーだったのかなと。

 

喫煙している人は肺がんや胃がんのリスクが高まるそうなので。。

 

 

 

あくまで残っている史料からの想像なので

もしかしたら違っているかもしれませんが・・・

 

やはり歴史上の偉人たちも、現代の一般人と同じような病気で亡くなったのか

と思うとちょっとはかなくなりますよね。

 

人間一皮むけばみんな骨

とはよく言ったものです。

 

 

ちなみに、番組紹介では「関ヶ原で西軍を裏切り東軍についた小早川秀秋の死因」についても放送されるとありましたが

なぜか小早川秀秋はなく、代わりに伊達政宗になっていました。

 

あまりにも小早川秀秋の死が不可解だったためか

はたまた別の機会に秀秋だけ取り上げられるのかは・・楽しみにしておきましょう!

本能寺の変 信長殺しの真実と明智光秀の謀反の動機/本当の裏切り者は誰か BS-TBS 諸説あり!

本能寺の変というと、最近は・・エグスプロージョンが有名ですが(^_^;)

 

織田さんが家臣の明智にシバカれる、話!

www.youtube.com

 

この動画だと、明智さんが織田さんをシバいた理由としては

・長い間イジられた

・あだ名を「ハゲ」にされた

 

ハゲ??

そんな話あったっけ??とも思われるかもしれませんが

実は、そういう説もあるらしいんですよ(笑)

 

信長の家臣・稲葉一鉄の子孫等が書き残した『稲葉家譜』という史料がありますが

その史料には明智光秀の「本能寺の変」の動機が明記されているらしいです。

 

「信長公、光秀が法に背くを怒りて、以てこれを召し、譴責して手を自ら光秀の頭を打つもの二、三に至る、光秀がびん髪(ぱつ)少しきなる故に常に附髪(つけがみ)を用ゆ。この時これを打ち落とされ、光秀深くこれを啣(ふく)む。叛逆の原本はここに発起す。」

 

↓現代語

「……信長は光秀を怒って呼びつけると、光秀の頭を二、三度叩いた。光秀は髪が薄かったのでいつも附髪を用いていたが、このときそれが落とされたので、光秀は信長を深く恨んだ。謀叛の原因はこれ……」

 

附髪とは「カツラ」のことだそうです。

 

昔は55歳と言われていた光秀は

最近の研究では、67歳だったと言われているそうなので、まあ・・正直ハゲてても全く不思議はないんですが・・(^_^;)

 

そうはいっても、かつらつけてるのはみえみえでしょうから

それが理由で謀反まで起こすとは・・ちょっと、ねぇ・・(笑)

 

そういえば、明智光秀を主人公にしたドラマで、これはとてもおもしろかった記憶があります。

どちらかというと、「良い人」として光秀を描いていたドラマです。

主演の明智光秀役は唐沢寿明、その他には

長澤まさみ、柳葉敏郎、大泉洋、上川隆也らが出演しています。

 

 このドラマだと、たしか、自ら秀吉に討たれるような最期を選んでいたような気がしますが(^_^;)

 

2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」では

明智光秀役は、光石研さんです。

 

 

#おんな城主直虎 本能寺の変は秀吉黒幕説⁉︎明智光秀(光石研)の子・光慶が天海になる説 ネタバレ・あらすじ・ストーリー - ひなぴし

 

「本能寺の変」に謎が多い理由

歴史は勝者がつくっていくものだと言われますが、この本能寺の変でも同じように

やはり勝者によって改変されていたようで。

本能寺の変のあとの勝者といえば、豊臣秀吉です。

豊臣秀吉によって、明智の謀叛に関わる資料がほとんど捨てられてしまったそうです。

おそらく、捨てただけではなく、証言していた人を口封じで殺してしまったり

そういったこともあったんでしょう。

こうやって考えると、やっぱり秀吉に都合の悪いことがあったのかな?と想像してしまうのですが

まあ、直接的にたとえば秀吉が謀叛に関わっていたというパターンだけではなく

秀吉が信長の後継者となって天下を治めるという体制になることに支障があるようなことがあった、ということかもしれません。

どちらにせよ、そうやって本能寺の変の真相はわからなくなってしまったんだとか。

 

明智光秀とは?

美濃守護・土岐氏一族の明智城主の子として生まれる

28歳のとき土岐氏にかわって美濃を治めた斎藤道三に仕えるが斎藤家の内紛に巻き込まれ、明智一族は離散した

諸国を放浪し、有力者の目にとまるため、歌や茶の湯などの教養を身につけ鉄砲や剣術の鍛錬を重ねた

35歳のとき、越前の朝倉義景に召し抱えられそこで足利義昭と出会う

義昭から信長との橋渡しを命じられ、才を買われ信長の家臣となった

金ヶ崎の戦い、姉川の戦い、比叡山の焼き討ち等でめざましい活躍を果たす

1571年、家臣の誰よりも早く一国一城の主となり近江に5万石を与えられる

 

光秀が優秀であったがために信長が嫉妬して

パワハラのようなことをしたことによるパワハラが動機では

 

という話がよくありますが

わかりやすく信長が光秀に手をあげて血が出るほどあたまを柱かどこかに打ちつけたとかいう話等はおそらく後の世の「芝居」で、より面白くするためにつくられた創作の要素が強いのではないかと思われます。

 

また、信長は光秀よりも高い視点から広い視野をもって行動しており、信長が光秀に嫉妬するというのは考えにくいため、

「怨恨説」は疑わしいのではないかと思われます。

 

 

それでは、信長殺しの真実は?本当の動機はなんだったのか??

 

 

世直しのために信長を殺した説

信長の暴走を光秀がとめようとした

小和田哲男氏の主張だそうです。

 

光秀が本能寺の変直後に送った書状に次のような文言があるそうです。

「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」

(「武家事紀」西尾光教宛 光秀書状)

 

信長の悪逆とは

 

1.天皇の上に立つ(譲位をせまる、暦の変更をせまる、安土城に天皇を迎える間があるが、天主から見下ろすような位置に作られている、自分を神とするようにと言っていた)

 

2.残虐行為(比叡山の焼き討ちで女こどもも含んだ3千人を殺害、それを命じられたのが光秀、甲斐の恵林寺の焼き討ちで高僧・快川紹喜も含む多数の人間に火をかけて焼いた、快川紹喜は明智家と同族であった)

 

このようなことが続いては世の中がうまくいくはずがない

という思いで、信長殺害に至ったというのがこの説です。

 

四国攻め阻止のために信長を殺した説

本能寺の変の直前に明智光秀と長宗我部元親がやり取りした書状が岡山県で発見された

長宗我部家と明智家は姻戚関係にあった

長宗我部家との外交交渉は光秀が担当していた

 

信長は本願寺との戦いに忙殺されており、元親に四国の領土を認めた

 

その後、信長が本願寺との戦いに勝利すると、前の内容を反故にし

土佐と阿波半国だけを認める、それ以外は手を引けと元親に言う

 

元親は拒否し対立、間に立っていた光秀は立場があやうくなった

 

光秀は長宗我部家を滅ぼすわけにはいかないと、信長の元親への要求を飲むように

元親へ書状を送った

 

その返信として、元親は信長の意向に沿うという書状を送っている

阿波の城からは撤退している(四国の領土拡大からは手を引いている)

つまり、長宗我部側は信長との関係改善をはかろうとした

しかしこの書状は光秀には届かなかった(事情は不明)

 

信長は息子の織田信孝に元親征伐を命じており、

信孝は大坂で準備を進めていた

 

そして、四国征伐のまさに当日の早朝に

光秀は本能寺の変を起こす

 

長宗我部家と明智一族を守るために、明智光秀は本能寺の変を起こしたのではないか。

四国征伐の開始を阻止しようとしたという説。

 

 

明智光秀の重臣・斎藤利三は長宗我部家と密な関係を示す資料が残っているとのこと。

斎藤利三は光秀をせかしたという話もある

 

 

謀叛の動機は信長の大陸侵攻だった説

ルイス・フロイス「日本史」によると

信長が日本の君主となったら中国を武力で征服し、諸国を子息に分け与えるつもりだった

とある

 

宣教師ヴァリニャーノの書簡によると

スペインが信長と手を組み、大陸征服を目論んでいたという話がある

 

もし、大陸侵攻がはじまったら・・

光秀はおそらく、自分がその最前線に送られるであろうと感じたのではないか。

 

これまでの織田家では、活躍した武将に領地が分け与えられるなど

働き次第で出世ができる環境であったが

本能寺の変が近づいたころになると、家臣たちは次々に各地の最前線へ送られ

逆に信長の子息たちは近江や京など、中央の領地を与えられるようになっていた

 

光秀は丹波坂本からこれから攻める中国の土地への領地転換を命じられていた。

 

日本を統一すればゆったりとした時間が訪れるのではと思っていたところ

大陸侵攻の話がみえてきたことで

おそらく、自分がその大陸の最前線に送られると恐怖したのではないか。

 

明智光秀はこれまで、本能寺の変の際、55歳(信長は49歳)と言われてきたが

最近の研究で67歳だったのではないかと言われている。

今の年齢でいえば80歳とも言えるような高齢であり、また、息子・明智光慶が13歳だったこともあって、

もし自分が討ち死にすればおそらく明智家はつぶされるであろうと考えたはずである。

 

明智光秀の才能は信長も買っていたと思われるので

おそらく、大陸への侵攻となれば命じられる可能性は高かったのではないか。

 

 

明智光秀が自分の意思で本能寺の変を起こしたとすれば

たしかにこの3つの中のどれかの説かもしれないなと思われますね。

 

もし信長が生き残っていたら、このあと悪い政治をどんどん行っていた可能性もあります。

 

そういう意味では、明智光秀に討ち取られたことで

織田信長は「すごい人」という部分だけがクローズアップされる人になったのかも・・しれませんね。

 

 

本能寺の変での本当の裏切り者は誰か?

ここからは後編です。

光秀の単独犯行ではなく、共謀したのではないか、というのがメインのお話しです。

その場合は、やはり、この本能寺の変が起こって誰が得をしたのか?

というところから考えていくと・・

 

その後、天下をとることになる豊臣秀吉か。

もしくはそのまま信長が生きていたら信長から殺されるかもしれない

もしくは信長の駒として大変な苦労をしたかもしれない徳川家康か。

 

そのあたりになってきます。

 

秀吉も信長を殺そうとしていた

2万人の軍勢が中国大返しを、言われている期間が行うことは本当に可能なのか?

 

秀吉と光秀の間には、信長への不満という共通点があったのではないか。

信長殺しを結託し、本能寺の変が起こることを事前に知っていたのではないか。

 

6月2日に本能寺の変、3日の夜に秀吉は知らせを聞く

停戦交渉をして6月6日昼に出発。

わずか7日間で200kmを戻ったとされている

途中では大雨もあり、ぬかるんだ道の行軍もあったはず

 

6月13日には山崎の戦い

 

現代の技術で計算すると、この日程では山崎まで到着することはできない

実はもっと早くに出発していたのではないか

信長の死を知っていて、すでに準備を進めていたのではないかということ。

 

また、急いで山崎に戻って明智と戦ったのは

共犯者である光秀の口封じのためではなかったか

 

 

一説では、大返しの際、秀吉は兵たちに鎧武具を脱ぎ捨てさせ裸で走らせた(先にまた着られる鎧武具を用意しておく必要あり)、また意欲を出させるために金をバラまいたと言われている。

 

これも大返しをあらかじめ考えていたからこそ、その準備ができていたのではないか。

 

また秀吉は道の整備もしっかりと行っていた。

これも自分たちが大返しをする際に、すみやかに通られるように行っていたのではないか。

 

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秀吉の中国大返しについては

いろいろな説があって、やはりもう少し早く出発していたのではというのが最近の有力な説なようです。

 

このあたりの史料も、もし秀吉に都合がわるい内容であれば確実に廃棄されているでしょうから、

いま残る史料は秀吉に都合がいい状態のものだけ、ということかもしれないですね。

 

信長が家康を殺そうとしていた

明智光秀とともに本能寺にいった足軽が残した記録

「我らは上洛中の家康様を討つばかりと思っていた」

 

ルイス・フロイス「日本史」

明智光秀は信長の命にもとづき、三河の家康を殺すつもりであろうと考えた

 

信長からみると家康は危険人物

自分の目の黒いうちに始末しておきたいと考えた

 

背信行為 武田と戦っていた信長は、武田の家臣を匿っていた家康をよく思うはずがない

怨恨   家康の父・祖父・叔父・息子が、織田家や信長の手によって殺されている

 

信長は家康を本能寺に呼び出し、光秀によって殺させようと考えたのではないか

 

それよりまえに、信長は安土城で家康を最大級にもてなし

さらに堺・京の見物を提案し、嫡男の信忠を同行させていた。

 

最大級のもてなしで警戒心をとこうと考えていたと思われる。

 

そして、本能寺に礼を言いに来た家康を光秀に討ち取らせる計画だった。

理由は「家康に襲われた」とする。

そのために、信長自身は非常にすくない手勢であえて本能寺に入っていた。

 

スペインのエル・エスコリアル修道院に保管されたアビラ・ヒロンの「日本王国記」に信長が家臣弥助に向かって話したと言われる最期の言葉が残っている

「わたしは自ら死を招いたな」

 

自分が家康を罠にはめようとしたところ、それを利用する形で光秀によって殺されてしまうという・・

 

 

家康が信長を殺そうとしていた

家康は本能寺の変のあと、「神君伊賀越え」を行っている

家康人生の最大の危機と言われている

 

6月2日午後に本能寺の変を知った家康は

服部半蔵が手配した伊賀者に守られ三河まで帰ったとされている

 

あらかじめ謀叛を知っていた家康が逃亡ルートを確保していたのではないか

 

茶屋四郎次郎が同行していたが、記した記録で

「ご機嫌よく三河へ帰った」としている

命からがら帰ったはずが・・

 

光秀は家康と組むことで、信長を殺しても徳川から襲われる心配がなくなり

また、いまだおさまっていなかった旧武田領の甲斐からの勢力の侵攻も食い止めることができる。

 

徳川諸大名に伝わる文書をまとめた

「寛永諸家系図伝」

「6月6日、甲斐に城を築くように家康が命じた」とある。

伊賀越えをおえて直後に、甲斐へ侵攻しているのだ。

 

また、伊賀越え時の働きを感謝する家康からの書状が熊本細川藩に仕えていた「三宅家史料」にある。

その宛先は喜多村出羽守だが、その出羽守は光秀の娘を嫁にしており、

家康は光秀の義理の息子に助けられていたことになる。

 

 

実は、秀吉も光秀も、家康も絡んでいた

伊賀者を即座に集められるだけのネットワークが、服部半蔵を中心として存在していた

という話もあるみたいですが。。

 

でもたしかに、家康と光秀にはいろいろつながりがありそうで。

 

徳川家光の乳母・春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であり

本能寺の変を起こしたいわゆる罪人の娘。

これを次期将軍の乳母に・・というのは、やはり変な気がしますし。

 

あとは、明智光秀は「天海」という江戸幕府初期の参謀のような役割を果たした層になったのでは?という説もあるみたいです。

 

年齢が合わないのではという話もあるようですが

天海はかなり長寿だったとされており、100歳を超えて生きていた可能性もあるので

絶対にない話ではないような・・

 

また、日光東照宮あたりに、明智家の家紋がある、という話も聞いたことがあります。

 

 

もし明智と家康が結託して起こしたことだとしたら

秀吉はそれを知らなかったんでしょうね(^_^;)

もし知ってたら、家康をその罪で追い詰めたでしょうし。

それとも、追い詰めると自分の非も攻められるからと・・

 

つまり、実は

 

秀吉 ⇔ 光秀 ⇔ 家康

 

という、光秀を挟んで

実は、秀吉も家康もからんでいた説

 

というのもありえるような気がします(^_^;)

 

 

本能寺の変を前にした信長の行動っていうのは

やっぱり恨みを買いまくってたと思うんですよね。。

家臣たちは恨みではないものの、恐怖して静かに眠ることもできないぐらいだったのかも・・

 

それから逃れるには、この人を殺すしかない

戦国の世なら、そう考えても不思議はないですよね。

現代だったらありえませんけど(笑)

真田幸村、長男説・家康スパイ説・生存説 BS-TBS諸説あり! 真田丸

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」は大人気の大河ドラマでした。

もともと主人公の真田幸村(真田信繁)が多くの日本人が好きな武将なので

かなりの視聴率が予想されましたが、それに加えて三谷幸喜さんの脚本の面白さ

主役の堺雅人さんや大泉洋さん、草刈正雄さん、長澤まさみさんなどの好演もあって

2016年の年末には「真田丸ロス」が叫ばれていました。

 

真田丸の視聴率が良かったことで、2017年の「おんな城主直虎(柴咲コウ主演)」の視聴率がそこそこの数字になっていることにもつながったと思います。

 

それまでは放送されるたびに視聴率が低い、というようなことを言われてましたからね・・(^_^;)

 

 

さてそれはさておき

「真田丸」ではいろいろな新説が取り入れられていたような気がします。

たとえば、豊臣秀次の自決。

 

以前は、秀吉の命令により切腹したというのが通説でしたが

近年出てきた新説「秀次が自ら命を絶った」というのを真田丸では採用していました。

 

豊臣秀次は秀吉の命令で死んだわけではなく自害したという説 #真田丸 はこの説採用か - ひなぴし

 

・・というように、いろんな新しい要素も取り入れながら「真田丸」は人気を博していったんですが

 

真田幸村という人物については

他にもいろんな噂や謎、説があるようで。。

 

 

今回は、BS-TBS「諸説あり!」で紹介されていた

・真田幸村 長男説

・徳川家康のスパイ説

・真田幸村 生存説

について、まとめておきたいと思います。

 

www.bs-tbs.co.jp

 

父親は真田昌幸(草刈正雄)、真田信繁(幸村・堺雅人)は次男、長男は真田信之(信幸・大泉洋)と言われています。

 

信繁は大谷吉継の娘を娶っていることもあってか

信繁と昌幸は関ヶ原の戦いで西軍につき、信幸は徳川家康の重臣・本多忠勝の娘を正室に迎えていますので東軍につきました。

 

昌幸と信繁は九度山に幽閉され、昌幸はそこで死去

信繁は大坂の陣の際に豊臣家に召し出され、最後は徳川家康に死を覚悟させるほどの活躍をしたあと命を落としたとされています。

 

 

真田幸村、長男説

・真田家は弱小大名だった

・そのため、次男である信繁は織田・上杉の人質としてたらい回しにされる

・真田家が戦国の世を生き抜くための道具として活用された

 

東京大学の山本教授による説

信繁は長男だった

 

根拠1

「寛政重修諸家譜」(徳川家が全国の大名や旗本の家系をまとめた書)

兄信幸の通称は源三郎、信繁は源次郎

 

普通に考えれば、名前の付け方が逆ではないか

 

根拠2

信繁に対する待遇

 

18歳で豊臣秀吉の人質となったとされるが

実際は秀吉直属の親衛隊・馬廻衆として仕えていた

また1万9千石もの報酬を受けていたとされる(大名クラス)

 

信繁の妻は大谷吉継の娘

豊臣政権を動かしていた奉行衆

将来政治の中枢に入っていく可能性がある立場になる

 

秀吉には譜代の大名というのがいないので

優秀な人材は引き上げていこうという意欲があったと思われる

 

 

 

もし、幸村が長男だったとするならば

いつ誰が、幸村が次男だったという話を作り出したのか?

 

幸村の死後、徳川の時代になってから作られたものではないか

 

徳川にとっては、徳川に敵対した信繁のことは認めたくない

また、徳川に仕える真田家としても隠したい存在である(信之の家系)

 

そのため、真田家自ら、信之の家系を正当化するために

信繁と信之の兄弟の順を入れ替えて伝えたのではないか、という話

 

徳川家にとってもその方が都合が良い

 

ちなみに上の「家譜」で、信之の生年は記録されているが

幸村の方は入っていない

 

 

名前の順については、諸説あるようだが

その家の嫡男が代々五郎や六郎を名乗ると決まっているような場合は

長男が五郎や六郎になっている場合はあるが

その場合も、その下の兄弟は六郎や七郎のように数字は大きくなるのが普通だとのこと

 

 

真田幸村は徳川家康のスパイ説

大坂夏の陣で徳川家康に死を覚悟させるほど追い詰めたと言われているが・・

 

 

この本に「真田幸村スパイ説」が書かれている。

家康に内通していたという話。

 

 

九度山での待遇

 

父や妻が一緒だったり、家来がいたり、子もたくさん生まれたり

という状態だが、幽閉という状態ではこういうことは普通ない

宇喜多秀家は八丈島へ流され、妻の帯同も許されていない

大坂までわずか50kmしか離れていない九度山に幽閉されるというのもおかしい

 

真田家は諜報活動を得意としていた

幸村の祖父の代から有名なことだった

そのため、家康は幸村を使って、大坂方の動きを探らせていたのではないかという話

 

幸村の娘・おかねが嫁いだのが石川光吉、その兄弟である石川光元の妻・「亀」が家康に見初められ家康の側室となっている

その亀がのちの尾張徳川家初代藩主の徳川義直を産んでいる

・・ということで、家康と幸村は親戚と言えるような間柄である

 

家康は親戚であることを理由として幸村に接触

幸村をスパイとして取り込んだのではないか

(ただ、これぐらいのつながりはどこの家にもあるため、遠いと言える)

 

表裏比興の者といわれた真田昌幸同様に、行動したのかもしれない

 

 

家康の孫にあたる松平直政がわずか500の兵で真田軍に突っ込んだ

「あっぱれ若武者」と叫んで扇子を投げ、攻撃をやめたと言われている

 

この時の扇子で何かを徳川方へ伝えたのではないか

 

 

もしスパイだとすれば、大坂方を暴発させる導火線の役割を果たしたのではないか。

 

 

結局最後に幸村が死力を尽くして家康をおいつめており

スパイだとすると、それとつじつまが合わない

 

 

しかし、たとえば冬の陣の頃までは家康のスパイとして活動していたものの、

その後条件交渉等がうまくいかず、不和になったのではないか。

 

もしかすると当初は「信濃1国」と言っていたのを、大坂城の堀を埋めた姿をみて家康が条件を勝手に下げ、それに幸村が憤慨し裏切ることになったのかもしれない

 

真田幸村、生存説

定説では、大坂夏の陣での激闘の上、身体を休めているところを討ち取られたとされている

 

鹿児島で生き延びていたという話

 

根拠1 「左衛門佐君伝記稿」

大坂の陣のあとに流行った童歌

花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて のきものいたりかごしまへ

 

鹿児島へ逃げ延びたとするわらべうた

 

ただ、この伝記が書かれたのは幸村死後200年経ってから

 

リチャード・コックスの日記

大坂の陣からわずか5ヶ月後、「秀頼は薩摩で生きている」と記載されている

貿易を通してさまざまな権力者とやりとりがあった人物

 

 

南九州市頴娃町(えいちょう)

 

山の中に「幸村の墓」と伝わるものがある。

墓石に使われているのが「山川石」という貴重な石で、島津家しか使っていないものだという。

殿様と同等の扱いがされているということ。

 

実は周辺の地域に「雪丸」という苗字の家が40軒ほどあり

さらに地名にもなっている

幸村が訛って「雪丸」となったという説がある

 

幸村はこどもを作って暮らしたという言い伝えがある

 

また、周辺の墓地には

六文銭が家紋として多数の墓に刻まれている

 

 

九州では「なかはら」を「なかはる」というような言い回しが多数ある

「ゆきむら」が「ゆきまる」になるのも納得できる

 

 

島津家は幕末になって謀略が得意な藩になっている

戦国期の島津家にはそのような話はない

 

謀略は真田家のお家芸

もしかしたら、真田家の力が島津家に何らかの形で加わったのではないか

 

(とすると、徳川家を最後倒したのは真田の力だと言えなくもない)

 

 

 

以上、真田幸村に関するミステリーでした。

 

歴史の勝者となった徳川家に歯向かったものとして、歴史からはやっぱりいろいろ消されてしまっているんですよね。

 

なので、本当のところはよくわかりません。

ということは、もしかしたら

 

本当は

 

長男で、家康のスパイだったけど最後は裏切り

でも死なずに薩摩まで逃げて生き延びた

のちにその子孫が島津家に仕え、謀略に長けた島津家を作り出し

徳川家を打ち倒した

 

なんてことがあるのかもしれません。

 

 

なんとなく、鹿児島に残るいろいろな証拠から

「本当に幸村は薩摩まで来たんじゃ・・」と思う部分もありますが

そうなると、一緒に逃げた豊臣秀頼はどうなったのかなと・・

 

あ、秀頼は天草四郎時貞になったという説もありますけど

それは・・・ないですよね(^_^;)

加藤清正の死の真相は?家康による毒殺説を検証、真田丸では服部半蔵により暗殺されていた

熊本城を築いた有名な武将といえば、加藤清正です。

豊臣秀吉に取り立ててもらい出世していった武将として

「豊臣恩顧の大名」と言われます。

 

しかし、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に組みすることで結果的に

豊臣家の権力を弱めてしまう手助けをすることになってしまいます。

 

まあ・・加藤清正も、福島正則も

「豊臣政権」の維持ではなく、「豊臣家を存続させる」ことを優先に考えていたのかもしれません。

 

そう考えると、石田三成率いる西軍について

実際の実力者である徳川家康と敵対することは

どう考えてもよくない、と思ったのかもしれませんね。

 

 

2016年の大河ドラマ「真田丸」においては

石田三成(山本耕史)が関ヶ原の戦いの戦い後に捕らわれて亡くなったあとは

その意思を引き継いで、豊臣家を守る!というような決意をしていたように思います。

 

真田丸での加藤清正は、新井浩文さんが演じていましたね。

けっこう「バカキャラ」っぽくもあったんですけど(笑)

頭に血がのぼったら何をするかわからない、的な(淀と密通してそうな家臣を、秀吉のために秘密裏に井戸に落としたり)感じでしたけど(笑)

 

でも、加藤清正は領国である熊本では、熊本城を名城として仕上げていますし

さらに善政を敷いたことでも有名なんですよね。

だから決して、バカキャラではないんだと思います。

虎退治のエピソードが有名なぐらいですから、強い人ではあったんでしょうけどね。

 

 

NHK-BSプレミアム「偉人たちの健康診断 歴史に学ぶ健康法」

加藤清正 謎の死の真相に迫る!

という特集が放送されていました。

 

慶長3年 (1598年) 清正37歳 豊臣秀吉が死去 秀頼6歳

 

慶長16年(1611年)5月 清正50歳 大阪から熊本へ戻る船の中で高熱を出す

そして約1ヶ月後の6月24日に加藤清正は逝去する

 

 

この時の清正の症状が書かれた資料によると

 

 

「高熱が出て、ろれつが回らず、身体が焦げたように黒くなった」

 

とあったそうです。

 

 

死因にはいくつかの説があるそうですが・・

 

1.梅毒説 好色のため 虚の病(梅毒)にかかった

浅野長政や池田輝政も梅毒で死去したと書かれているそうで、梅毒はかなり広まった病気だったそうです。感染症で、抗生物質ペニシリンが発見されるまでは不治の病でした。

ただ、加藤清正の症状には「バラ疹」のような梅毒の特徴的な皮膚の症状の記載がないそうです。(赤いアザのような斑点ができたり、ゴム腫と呼ばれる大きなしこりができる)

よって梅毒とは考え難い、と。

上に書いてある症状とはちょっと違っています。

 

 

2.家康による毒殺説

慶長16年(1611年)4月13日 清正の死の2ヶ月前

家康は清正たち豊臣恩顧の者たちを食事に招待

「大御所様(家康)の食事会のとき 気分が悪くなった者がいた」

という文献が残っているとのこと

実は、同席していた浅野幸長や池田輝政など豊臣恩顧の大名たちが

その後次々と急死しています。

家康は薬の知識に詳しく、中国から医学書を取り寄せて読んでいたほど。

徳川家に伝わる薬にはトリカブトが使われているものがあったりするそうで・・

もしかしたらそれが使われたのでは??と想像できるのですが

トリカブトの場合は、即効性があるため、それはありえない。

ではなにかというと、ヒ素ではないかとのこと。

ヒ素は少しずつ投与された場合、中毒症状として

高熱、意識障害、色素沈着

があるそう。

つまり、清正の症状と合致します。

 

しかし問題は、家康との会食から死ぬまで、2ヶ月もあるため

少量ずつ毒を盛るのは無理では・・

 

水戸藩に伝わる資料では

「家康と秀頼の対面の時に饅頭が出たが、清正はこの毒で死んだ」

というものが残っているそうです

 

もしかして会食のときに土産として饅頭が渡されていたとして

饅頭20個ぐらいをもらっており、

数日かけて10個ぐらいたべたとしたら・・

毒は1個食べたときの10倍になるため、数カ月経て亡くなることも考えられないことはない、とのことでした。

 

 

実は、大河ドラマ「真田丸」でも

加藤清正は、徳川家康(内野聖陽)の命令によって、服部半蔵(ハマカーン浜谷健司)が何らかの毒を清正に塗りつける?刺す?ようにしていました。

おそらく「遅効性」のものをつけた、という意味だったんだろうと思いますが・・

真田丸でも、毒殺説を採用していました。

 

 

清正の家康による毒殺説に「それはない」とする話もあって

それは清正の次女・八十姫が家康の十男・頼宣と婚約しており、秀頼・家康会見の時も頼宣の護衛として参加したという話があるためです。

家康としても、豊臣家との橋渡しを期待していたという話もあるとか。。

 

ただ、

結局、豊臣恩顧の大名たちが家康にとって邪魔だったことは間違いないので(笑)

もしかしたら、こども同士の婚姻を持って油断させておいての毒殺

というのもやっぱり考えられないことはないな、という気がします。

 

家康は薬の知識は本当に詳しかったようですし、自分の健康には相当気を使っていたみたいですからね・・

 

自分よりも相当年齢が下の加藤清正よりも、絶対に長生きしてやる!という思いで家康が生きていたとしたら

やっぱり殺す可能性もあるのかなという気がしますね。

 

 

あともうひとつあるのが

 

3.プレッシャーの連続説

だそうです。

 

秀吉の家臣時代は、成果を上げなければ切られるというプレッシャー

朝鮮出兵での壮絶な体験

徳川時代に入ってからの秀頼と家康の関係に苦慮する

 

こいう長年のストレスの蓄積が清正の身体を蝕んだのではと。。

秀頼と家康の会見、というのがストレスのピークと考えられ

そのあとに亡くなったというのも理解できます。

 

そのプレッシャーから発症した可能性があるのが

「スキルス性胃がん」

初期症状がほとんどない最もタチの悪い胃がん

 

もしこれだった場合も、症状と合致するそうです。

 

腫瘍熱(がんが原因の発熱)、失語症(がんが脳に転移)、播種性血管内凝固症候(血管に転移し至る所で血が固まる)

 

 

ということで・・

「2」なのか「3」なのか、結局はわかりませんが・・(^_^;)

 

ぼくはやっぱり、家康の毒殺があやしい気がしますね〜〜

息子の嫁の父親だとしても

容赦なく殺しそうな気がします、家康は(笑)

上杉謙信の川中島の戦い・車懸りの陣は無かった説

2017年6月7日(水)NHKーBSプレミアム

風雲!大歴史実験「川中島の戦い 上杉VS武田 激戦の秘密」

 

で放送された内容からのまとめです。

 

この放送では2つの実験を行っていました。

 

1つは、車懸りの陣の再現

もうひとつは、武田軍の騎馬隊が上杉軍をどう追撃したのか

ということでした。

 

とくに気になったのが、車懸かりの陣の再現です。

なんと、よく言われている「渦巻状の陣で鶴翼の陣の武田軍を打ち破った」というのが

実は違っているのではないか?というところです。

 

タイトルのニュアンスとはちょっと違うんですが(^_^;)

車懸りの陣が無かったというよりも、言われているような形ではなかったのでは?

というものです。

 

 

謙信は我が軍の陣を何度も回って立ちはだかる(甲陽軍鑑)

 

謎の陣形「車懸りの陣」は

江戸時代の軍学者によると・・(軍法侍用集)

 

渦巻き型の陣形で

部隊は次々の回転しながら攻めたのではないか、とされているそうです。

 

よく聞く渦巻き型(螺旋状)のやつですね。

 

先頭の部隊が戦いきったら次の部隊と交代

そうすることで、常に高い攻撃力が保たれた

 

というものです。

 

 

車懸りの陣の本当の姿とは

 

くるくる回りながらって・・

普通に考えても、かなり効率悪そうなんですけど(笑)

 

相手の場所だって、目の前とは限らず、横から来る場合もあるだろうし

回転して前に疲れてない部隊がくるといっても、意味がないかもしれません(笑)

 

ということで、

この陣形を実際に実験で試していました。

 

 

結果は・・鶴翼の陣の圧倒的勝利(笑)

 

前に前にいこうとする上杉軍に対し、武田軍は鶴翼の陣で相手を囲むように攻めることで上杉を包囲して・・終了(笑)

 

ということは、こんな方法ではきっと上杉謙信は戦っていないはず。。

 

 

車懸りの陣とは最新の研究では

鉄砲・弓・槍・刀という武器で部隊を分けて戦う戦法ではないか

というのがあるそうです。

 

その当時は、部隊ごとにリーダーとなる武将がその武将の配下に

「鉄砲・弓・槍・刀」の武器をもった人間がそれぞれいたそうです。

その部隊ごとで戦う方法だったそうですが

 

上杉軍は、それをバラバラにし、

武器別に編成して部隊を作ったのではないか

ということだそうです。

 

 

戦い方としては

鉄砲隊がまず撃ち、その後うしろの兵士が前進、鉄砲隊は最後尾に下がる

次に弓隊が前に出て撃ち下がり、そして槍隊が突撃する。

という風に、武器ごとの部隊が次々と前に来て戦うという作戦です。

 

これは・・強そうですよね。

どう考えても、同じ武器でまとめて攻撃した方が効果が高そうですし。

 

また、この時代はそういう戦い方をしていたことは無かったのではと言われています。

 

なので、見たことがないような攻撃が次々とやってくることで

武田軍は壊滅的な打撃を受けたのではないか、とのこと。

 

 

これで実験をやってみたら・・

見事に上杉軍が勝利!

 

ということで、これが車懸りの陣ではないか、とのことでした。

たしかに武器別の部隊がくるくる回転するような形なので

 

謙信は我が軍の陣を何度も回って立ちはだかる(甲陽軍鑑)

 

これにまさに当てはまると思います。

 

 

ただ・・

 

こういう武器別編成が本当にできるのか?!というのが疑問だそうです。

 

やっぱりその時代は、配下の武将たちが独立性を持っていて戦いに参加しており

武将たちはそれぞれ手柄をたてようとがんばるはず。

 

そこで武将の部隊をバラバラにして再編成すると

誰の手柄なのかよくわからなくなってしまいます。

 

なので、そういう編成を配下の武将にさせることが本当にできたのか

というのがやっぱり疑問だそうです。

 

・相当強大な権力を持っていた

・もしくは直轄軍だった

 

もしこういう武器別編成ができていたとしたら

こういう条件が必要なのでは?とのことでした。

 

うーん、、ここは不明なのでわかりませんが・・

 

 

やっぱり螺旋状で戦うのはかなり無理がありそうなので

この武器別編成の部隊が代わる代わる前にやってくる

という方法が最も良さそうです。

 

でもこれだけ強かったのなら、

おそらくこれをやれば、戦国時代は最強の軍団になることができたと思われます。

 

 

ただ、やっぱり、配下の武将の軍団をバラバラにして武器別に編成するのは

難しかったんでしょうね。

 

 

 

なんとなく・・ですが

 

こののち、武田信玄の息子、武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍との戦い

長篠の戦いで鉄砲隊が活躍したという話がありますが

 

これは鉄砲隊を集めて戦った

 

という意味ではちょっとこの謙信の作戦に近いものを感じます。

しかも、鉄砲隊がかわるがわる打ってきたとも言われていますしね。

 

(長篠の戦いは、実はこういう戦いではなかったという説もありますが)

 

 

武田信玄の騎馬隊の追撃方法

 

あと、このテレビ番組ではもうひとつ実験をしていました。

こちらは簡単にご紹介。

 

 

上杉軍の車懸りの陣でさんざんにやられた武田軍ですが

その後援軍がきて形勢逆転、今度は退却しようとする上杉軍にかなりの被害を出させたそうです。

 

その時の追撃は騎馬隊が活躍したそうですが

いったいどういうふうに追撃したのか?

という実験でした。

 

 

まず、

 

部隊を横並びにして逃げる上杉軍を追いかける

という方法をとってみますが

 

まず、人間の兵士と一緒に馬が走ると、

足のおそい人間と一緒に進む馬は足並みをそろえようとすると遅くなってしまいます。

 

また、馬だけで追いかけたとしても

横並びでスタートすると・・結局、逃げる上杉軍にはなかなかおいつけないようです。

また、槍を持って馬を扱うとなると相当難しく、馬も横並びで走ると走る方向が一定にならず目標に追いつくのが難しいとか。

 

 

そこで、縦並びに並んで馬を走らせてみると・・

 

スピードが上がり、目標に向かって次々に馬が到達する

という状況になりました。

 

やはり馬は、前を進む馬についていくし

前の馬がこうしている、というのをみて、うしろの馬も同じように行動してくれる

前の馬においつこうとしてスピードも上がる

ということでした。

 

 

・・・ということで

 

なんとなく、部隊は横並びにいて

そこからどんどんおいかけた

みたいなイメージになりがちですが

 

どうやら、騎馬隊は縦並びに進むようです。

 

 

もしこういう方法を武田軍がとっていたとするなら

やっぱり馬の習性をよく知っていたということなんでしょうね。

邪馬台国は無かったし卑弥呼という名の女性はいなかった説 知恵泉

NHK-Eテレ「知恵泉」で

2017年5月2日、5月9日の2週に渡って放送されたのが

 

邪馬台国はどこにある?古代ミステリー楽しもう・前編/後編

 

でした。

そこまで邪馬台国のこと、魏志倭人伝に詳しくないんですが

日本好きとしてはもちろん興味があります。

 

邪馬臺国がどこにあったのか?

卑弥呼はどういう人だったのか??

 

 

今回の放送でとくに気になった点を1つだけ取り上げたいと思います。

 

それは

 

邪馬台国という国は無かったし、卑弥呼という名の女性はいなかった

 

というものです。

 

 

邪馬台国という国は存在していなかった

邪馬台国の場所については

九州説や畿内説だけでなく、四国や日本全国に候補地があります。

 

それは魏志倭人伝の読み方・・

たとえば、距離が間違っているとか方角が間違っているとか

そのままの意味で取ると、おそらく陸地が存在しない場所に邪馬台国があったことになってしまうため(はるか南方の海上?)

その説を唱える人ごとにそれぞれ違う読み方をしているからです。

 

なので、この「知恵泉」という番組で言われている位置関係も

「全く違うよ!」という人もいるでしょうが(^_^;)

とりあえず、知恵泉で言っていたとおりに。

 

 

邪馬台国と卑弥呼を知るのに重要な手がかりになるのが

「狗奴国(くなこく)」とその王「卑弥弓呼(ひみここ」という人です。

 

この狗奴国を濃尾平野、愛知県辺りと想定していました。

そして、「狗奴国は邪馬台国の東にある」という情報から

おそらく邪馬台国は畿内にあったのでは?ということでした。

 

「邪馬台国からみて狗奴国は東にある」

という情報も、実は違うと言う方もいそうですが・・

「邪馬台国の南にある」というのをよくみかけますが、知恵泉では東にある

としていました。

 

 

東海地域では縄文・弥生の頃から大型集落が登場し

卑弥呼と同時代にも多くの土器が出土しています。

 

その東海地域にあったのが「狗奴国」で、治めていたのが

卑弥弓呼だったのではないかと。

 

狗奴国は邪馬台国に従っていた国ではなく、争っていたライバル関係にあった国で

この東海地区で多く出土する「S字甕」という特徴ある土器が

伊勢方面や北陸、関東一円でも見つかっており、広い範囲に勢力が及んでいたと考えられています。

 

東日本についてはこの狗奴国を中心に、東北南部ぐらいまでがひとつのまとまりになっていたのではないか

とのことでした。

 

狗奴国が東海地区、愛知県辺りにあるとすれば

邪馬台国はその西側にある

 

ということになり、そうなると有力なのは・・

畿内

 

纏向遺跡

 

ではないか、ということでした。

 

 

これまでの発掘調査から、全国でも例がないような巨大な建物跡があるなど、纏向遺跡には強い権力者がいたことがわかっているそうです。

 

桃の種が2700個も出土しているそうで

桃は魔除けや不老長寿の象徴とみなされるので、祭祀に使われたのではと推測されているとか。

 

巨大な建物、祭祀の跡から

やはり邪馬台国がここにあり、卑弥呼がここにいたのではないか

とのことでした。

 

 

卑弥呼と同時代に強い力を持っていたであろう人がいた地域は

日本の他の場所にも広がっており

 

朝鮮半島に近く、伊都国や奴国があったとほぼ確定している北部九州だけでなく

出雲地方や吉備、北陸にもそのような遺跡・古墳があるそうです。

東海の、おそらく狗奴国と思われる場所もそのうちのひとつで

 

北陸にも影響力があって、東にある狗奴国と対抗できる場所と考えれば

やはり畿内、奈良纏向ではないか

ということなのだそうです。

 

 

ところが、纏向遺跡には他の遺跡とは全く違う特徴があることがわかりました。

 

・人が住んでいた痕跡がない

(どの遺跡からも必ずみつかる水田や畑がみつかっていない、農耕に使う道具類の出土も圧倒的に少ない、さらに農民たちが生活していた痕跡もみつかっていない)

 

・全国から人が集まっていた可能性がある

(出土した土器をみると、東海、北陸、出雲、鳥取、関東、九州北部など、種類や量から考えると、全国各地から人々が纏向にやってきたことがわかる)

 

 

つまり、

 

この奈良盆地の辺りが独立した国で、その中心が纏向であり

そこに人々が集まって暮らしていた

 

という形ではないとかんがえられる

 

ということ。

 

 

なのでもしかすると、纏向遺跡というのは「国会議事堂」のようなところで

各地から集まった代表者が国の政治を行う場所だったのではないか

 

ということでした。

 

 

さらに纏向遺跡は

昔からあった遺跡というわけではなく

3世紀にある日突然ここに出現したもの

なんだそうで

それまで人がいなかったところに急に巨大な建物ができたりした場所である

だそうです。

 

 

・・とすると??

 

もしこの纏向遺跡が邪馬台国だとするのなら

卑弥呼という代表者がいる「国」のひとつ

ではなく

 

実は「邪馬台国」という「国」はそもそも存在しておらず

この連合国家のことをそのように呼んでいただけかもしれない

 

ということでした。

 

卑弥呼という名の女性はいなかった

さらに、邪馬台国がなかっただけでなく、「卑弥呼」という女性も実はいなかったんじゃないかという話があります。

 

「卑弥呼」というのは個人名ではなく地位や身分を示すものではないか

ということ。

 

卑弥呼

ヒミコ → ヒメミコ

      ヒメミコト

 

これを中国から来た人が、個人名と勘違いしたんじゃないかということでした。

 

 

これは・・・たしかに〜〜〜と思いましたねぇ〜

 

ここからはNHKでの放送内容ではなく、自分の想像なんですが・・

 

 

 

「姫命」(ヒメノミコト)という名がついた

日本書紀や古事記に登場する女性の皇族が何人もいます。

 

 

また、女王・卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国と敵対していた狗奴国の王の名前が「卑弥弓呼(ひみここ)」って言うのも変ですよね(笑)

まあ、もしかしたら「親族」や血のつながりがある人だった可能性もゼロではないと思いますが

それにしても、ここまで名前が似るとはちょっと考え難い気が・・(笑)

 

「卑弥呼」という漢字も完全に当て字でしょうしね。

わざわざ「卑」なんて字を使うわけないですし(そもそもこの時代は、日本にはまともに字は無かったんでしたっけ?)

 

 

卑弥弓呼(ひみここ)についても、男王だったとすると

実は「彦命(ひこのみこと)」だったんじゃないかと。

こちらも姫命と同様に、日本書紀や古事記に登場する皇族の男性の名前につく言葉です。

つまりこちらも、身分か地位の名前で。

 

 

だから、やっぱり、卑弥呼も卑弥弓呼も

そんな名前の人は存在しなかったんじゃないか

という気がしてきますね。

 

ちなみに、卑弥呼の娘と言われる「壹與(いよ)」については個人名のような気がしますが。。

 

 

 

・・ということで、

 

やっぱり古代の話はワクワクしますね(笑)

 

「卑弥呼の墓は大きい」という情報はあるので

おそらく今あるどこかの古墳が卑弥呼の墓である可能性は高いと思います。

 

しかし、宮内庁からゴーサインが出ないと調査はできませんから・・

もしかしたら永遠にわからないかもしれないですし

いつかは調査OKになりわかるかもしれません。

(箸墓古墳とか?)

 

今回の内容をみて、畿内説が有力な気がしますね邪馬台国。

まあ、「邪馬台国はなかった」ということではあるんですけど(笑)

 

同時期の全国に強大な勢力があったのに、魏志倭人伝で言われている「倭」という国(?)が

北部九州だけのことっていうのもちょっとどうかなという気がしますしね。

 

現代人が考えているよりも、その時代の人は日本全国を行き来していたようですし。

北部九州の人だって、きっと北陸や東海の部族のことも知ってたでしょうし。

 

やっぱり、邪馬台国→大和朝廷 なんですかね〜〜

大坂城の城主は織田信長だった #にっぽん!歴史鑑定

BS-TBS「にっぽん!歴史鑑定」で2017年4月10日に放送された

信長VS最強の宿敵・顕如

の内容からです。

 

大坂城の城主は織田信長だった

はずだった

 

 

みたいなことなんですけど(^o^;

 

 

 大坂城を築城したのは、豊臣秀吉というのはみんな知ってると思いますが

実は、大阪という場所はもともと、織田信長が欲しがっていた土地だったんですね。。

 

なので、もし織田信長が本能寺の変で死んでいなければ

ほぼおなじ場所に大坂城を築城していたであろうと言われているんです。

 

 

織田信長が大坂が欲しかった理由は

 

・非常に守りやすい場所である

 信長の時代の大坂はもっと水がいっぱいで、

 現在の大坂城辺りは浮島のような状態だった

 自然の川や海に囲まれ、守りやすい場所である

 

・瀬戸内海につながる港があり、海上交通の要地

 外国からの船も受け入れやすい場所

 

・西日本制圧の足がかりとしやすい場所(しかも京都に近い)

 西日本へ兵を出す、指示を出すには良い場所(中国・四国地方に目が届く)

 その当時反映していた京や堺にも近く経済の拠点といえる

 

 

これら、よく考えたら、けっこう安土城の立地とも共通点があるんですよね。

琵琶湖岸にあることで、そこから流れる川を使えば水運でいろんなことができるし

京都に近い場所で日本の中心あたりにある

 

でも・・

安土の水運って結局、

大坂あたりから瀬戸内海へ出られないと意味がないと思うんですよね。

 

そういう意味でも大坂というのは重要だったのかなと。

 

安土から居城を移すなら・・大坂か、と思ったんだと思います。

 

 

では、織田信長が大坂城を作れなかった理由というのは

 

その場所に石山本願寺がいたからで、その宗主・顕如との戦いが有名です。

 

 

大坂城があった場所にはもともと石山本願寺があったんです。

その当時はそこが本拠だった。

 

お布施により戦国大名を超える財力があり、しかもたくさんの僧兵を抱えているという。

もしかしたら戦国最強の大名が本願寺顕如だったかもしれません。

 

 

 初めは信長からの30億円にも及ぶ矢銭(軍資金)の要求に応じるものの

大坂から立ち退くようにという信長の要求に我慢ならずに反旗を翻しました。

 

この「大坂から立ち退くように」というのが

「大坂欲しい」という信長の気持ちがアリアリとみえますよね。

 

京・堺に近く、しかも本願寺があることで門前町として栄えていた大坂は

経済力もある街だったようで、

軍事的な意味だけでなく、経済的な意味でも、信長は大坂が欲しかったようです。

 

 

キリスト教イエズス会の外国人宣教師が書いた書物にはこう書かれていたとか。

「本願寺は日本で一番大きい宗派である 日本の富の大部分は本願寺の僧侶が所有している」

 

おそらく、庶民からだけでなく、公家や大名といった武家からもお布施をもらう立場であり、それによってかなりの財力をもっていたようです。

既得権益があり、武家の権力闘争の外側にいたようです。

 

織田信長は「天下布武」といっていますが

「公家」「武家」「宗教」の中で、公家と宗教の力を弱め、武士が世の中を治めるのだという意味でこの言葉を使っていたようで

 

権力闘争の外側にいるとはいえ、

寺院が大きな富を持ち、政治に口出ししたり、武力を持つことが許せなかったようです。

政教分離をしたかったと、現在の言葉ならそういうことになろうかと思います。

 

またやっぱり大坂は経済的に豊かな土地で

信長公記にも「そもそも大坂は日本一の土地である、大小の川が網目のように流れ、船の交通もよく、同時に四方が自然の要塞になっている。西は広々とした海で外国の船も出入りする経済力豊かな港町である」と書かれているそうで

 

本願寺顕如のような宗教人が力を持つことが許せない

ということと

欲しい大坂に顕如が居座っている

ということから戦いになってしまったんだと思われますが・・

 

 

織田軍と本願寺軍の戦いである石山合戦は

1570年に開戦します。

この本願寺と織田信長の戦いは10年にも及ぶので・・

 

おそらく、織田信長にとっての最強の敵は、本願寺顕如だったんだと思われます(^o^;

 

もし織田信長が本能寺の変で死なずに

そのまま天下統一できていたとしたら

おそらく、倒すまでに10年かかった相手

は、きっと本願寺だけだったでしょう(笑)

 

 

一向一揆は本当に強かったみたいです。

死ぬことを怖がらない

むしろ戦って死ぬことで極楽浄土へ行くことができると思っていたので

全く怖がらずに戦ったとか。

逆にうしろを向いて逃げたら地獄に堕ちる

そういう話もあったようです。

 

進まば往生極楽

退かば無限地獄

 

こう書かれた旗がかかげられていたそうです。

 

 

実は石山合戦では、織田信長は本願寺の鉄砲砲撃により

足を負傷したそうです。

鉄砲も使いこなしていたんですね。。

本願寺顕如は鉄砲の扱いに長けた傭兵部隊・紀州の雑賀衆を雇っていたとか。。

 

 

要はこの戦いに時間をとられすぎて

結局、大坂を手に入れた直後に織田信長は本能寺の変で死んでしまうため

結局、大坂に城をつくることはできなかった

 

そういうことになるんだろうと思います。

 

 

大坂の石山本願寺だけでなく、長島や越前の一向一揆の鎮圧もあったので

織田信長が一番戦った相手というのも、本願寺&一向一揆だったのかもしれません。

 

 

しかしこの大坂にそのあと、織田信長が死んだあと、

城を建てて

そして天下を統一してしまう人物が現れます。

 

それが豊臣秀吉です。

 

 

おそらく、織田信長が大坂の土地にこだわり

ここに城を築いて天下を取ると言っていたのを

秀吉は聞いていたはずで

 

それを忠実に実行して、秀吉はそして天下を取った・・そういうことになりますね。

織田信長の先見の明がわかる、というところでしょうか。

 

 

しかも、秀吉が大坂城を築城したのは、信長が本能寺の変で死んだ年の翌年ですから・・

それはもう、秀吉も狙っていたとしかいいようがありません(笑)

 

 

ちなみに、秀吉は顕如と和解したそうです。

 

織田信長は大坂を最終的に無傷の状態で手に入れたかったので

顕如の大坂退去で講和することになり、信長死後も顕如は生きていました。

 

 

武力は持てないようにしたものの、寺家としての地位は保証。。

 

そういえば、今現在は

「東本願寺」とか「西本願寺」とかありますが

この顕如の息子2人の分裂によって生じたことだそうです。

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井伊直虎と同年代の戦国武将は誰?生年月日、死没、石高は? #おんな城主直虎

大河ドラマ「井伊直虎」を毎週観ています。

去年の真田丸で、大河ドラマを久しぶりに見続けたのですが、

その習慣で。。

 

 

…といっても、この「おんな城主直虎」は結構面白いです。

 

 

面白さを表現するのは難しいんですが…

 

実在した人物の話でありながら、そう感じさせない、というか(笑)

 

歴史上の人物なので、多少のフィクションはあっても基本的には史実に則って作られているんだと思いますが

 

正直、この戦国時代の井伊家のことなんて、ほとんどの人が知らない(笑)

むしろなんでこんな無名な人が大河ドラマの題材に選ばれたのか?と疑問に思うほど、知りません。

 

日本史の教科書に名前が出てくる人ではないですしね。

 

井伊家というと、井伊直弼ぐらいは聞いたことがあると思いますが、

その先祖、というぐらいのものです。

 

松平元康(のちの徳川家康)、今川義元・氏真、あとは今の所名前だけ出てきている織田信長

 

は、「直虎」に出てくる武将で知ってる名前ですが、

ポイントポイントで登場してくるだけで、

大部分は井伊家の、さらに無名な(笑)家臣たちとの話が主です。

 

なので、

 

「先が読めない」感じが面白いんですかね。

大きな歴史の流れは知っているけど、そこに至る過程で井伊家がどうしてどうなったのかまでは、事前知識としてはほとんどないので。

 

それで観ていて面白いのかなと。

 

あとは「よく知られていない」人の話なので、

脚本の自由度も高く、本当にあったかどうかわからないことも、感動的に描くことができる

という点がいいのかもしれないですね。

 

それは違うやろ!!

 

という否定ができるほどの証拠も存在してないので(笑)

そうかもしれないし、そうではないかもしれない

というところです。

 

まあ、、

 

そもそも「井伊直虎」が女性であった

という確たる証拠すら無いので、

 

ある意味では

 

「井伊直虎がもし女性だったら、こうだったかも」みたいな物語になっているのかなと思います。

 

真田丸では最新の研究から出てきた新たな解釈がたくさん取り入れられていましたが

 

どうやらそれとも違う方向性なように思います。

 

 

…ということで、

 

 

無名な井伊直虎ですが、

 

では、この井伊直虎は、

 

みんなが知ってる武将たちと比較したら

いったい誰と同年代の人だったのか??

 

というのを調べてみました。

 

 

井伊直虎が遺した最も大きな功績は、

井伊直政という有能な子供を家康の家臣にして

家を現代まで存続させる基礎を作った

 

ということです。

 

 

例えば、伊達政宗みたいに、

「もしかしたら天下を取っていた」みたいな人では無いと思います。

 

なので、まあ有名武将と比較しても

同じようなことができたわけではないし、

張り合えるような力は到底ない上

そういう有名武将から一目置かれていたわけでもないんですけどね。

 

長生きしてたらもっと有名になっていた、

ということもおそらくないでしょう(笑)

 

 

ただ、同年代の武将を知ることで

 

より深く、井伊直虎が生きていた時代を理解できるのかもしれないなと。

 

 

たぶんそれがわかると

井伊家のスケール感がわかるかなと。

 

おそらく「極小」の範囲の領主である

ということなんでしょうけども😓

 

http://odajorighee.tumblr.com/post/159303700666/第13回城主はつらいよ-あらすじ-nhk大河ドラマおんな城主-直虎から

 

井伊直虎と同年代の戦国武将は?

井伊直虎(大河ドラマで演じているのは柴咲コウ、次郎法師、おとわ)は、実は産まれた年が正確にわかっていません。

 

…というぐらい、

正直よくわからない人なんですよね(笑)

 

でも、おそらく

1530年代前半であろうと言われています。

 

有名な大名クラスの人だけ、生まれた生誕年を挙げていくと・・

 

1515年 北条氏康

1519年 今川義元

1521年 武田信玄

1530年 上杉謙信

1533年 島津義久、朝倉義景

1534年 織田信長

1537年 豊臣秀吉、足利義昭

1538年 今川氏真、北条氏政、前田利家、鍋島直茂

1539年 長宗我部元親

1540年 豊臣秀長

1543年 徳川家康

1547年 真田昌幸

 

 

上杉謙信も近そうですが、ちょっと上っぽい。

北条氏康、今川義元、武田信玄という

三国同盟的な辺りは世代でいうと、1つ上の世代です。

 

で、秀吉はちょっと下ぐらいですが

家康は世代単位で1つ下という感じ。

 

ちなみに、昨年の大河ドラマで主人公だった真田信繁(真田幸村)の父

草刈正雄さんが演じていた真田昌幸は、井伊直虎からみるとかなり下になります。

 

なので、真田丸のドラマの世界とおんな城主直虎の世界は

ほとんどかぶらない、というのがわかりますね。

 

 

 

こうやってみてみると、井伊直虎と同年代かな?と思われるのは

ほぼ織田信長・・ですかね。

 

おんな城主直虎の中では、父と、井伊家の上司である今川家の当主、義元が亡くなってしまう戦いとして桶狭間の戦いが描かれていました。

織田信長の名前が知られるようになった契機となった戦い。

 

井伊家にとっての一大事であるのと同時に、織田家にとっては出世の第一歩というところでしょうか。

井伊家はそこから当主がいなくなり・・直虎が当主となって

でも混乱はおさまらずに最終的には井伊谷から一度追い出されてしまいます。

それが1568年頃・・その頃には信長は美濃を攻略し終わり、そこから上洛を開始します。

 

1570年に小野但馬守政次を家康が処刑、1573年に井伊谷を奪還

その頃の信長は浅井朝倉連合軍との戦いから、足利義昭を追放して室町幕府が終わる。

 

1575年に養子である直政(虎松)を徳川家康に仕えさせました。

この年に、織田徳川連合軍と武田軍との長篠の戦いが行われています。

 

1582年8月26日に直虎は死去

その年の4月3日に武田勝頼が自害し武田氏が滅亡、6月21日に本能寺の変で織田信長死す

 

 

こうやってみてみると、

やっぱり井伊家はかなり大きい大名に囲まれて右往左往した一族だったことがよくわかります。

 

昨年の真田家も大きい大名の狭間で苦労した一家の話でしたが

おそらく真田家よりももっと小さい領土だったのではないでしょうか?

 

井伊直虎の治めた井伊谷の石高は?

多く見積もって、1万石〜1万5千石ぐらいではないかと思われます。

といっても、井伊直虎の時代には「石高」という計算はしていなかったようなので

正確には不明です。

秀吉の行った太閤検地からあとで石高制に移行したと言われています。

 

なので、のちの時代の石高から想像すると・・

 

遠江が秀吉の時代頃、25万石

その頃浜松城主となった堀尾吉晴 12万石

 

で、井伊谷は浜松の一部分といえるので

おそらく1万石程度ではないかと思われます。

 

といっても、これも直虎の時代よりもあとの時代の話なので

正直、もっと少ないかもしれません。

 

ちなみに、昨年の大河ドラマ「真田丸」での主人公・真田信繁の父、

真田昌幸が領していた土地の石高は、おそらく6万5千石程度であろうと言われています。

(上田と沼田を合わせて)

 

真田家は豊臣の時代になってからはもっと大きい家になってますから・・

比較するとしたら昌幸が武田家臣だった頃かなと思いますが、その頃で6万5千石。

と考えたら、真田家ってそんなに極小の家ではなかったんですね・・(^o^;

立派な大名家(笑)(1万石以上は大名だと思います)

 

それと比較すると、井伊家は弱小(笑)

そりゃ、吹けば飛んでしまうような家だ

ということになってしまいますよね。

 

大河ドラマ「おんな城主直虎」の中では

今川家が再三にわたり井伊家を気にしていますが

所詮弱小領主、という程度にしか思われていなかったでしょう(笑)

 

まあそうはいっても、今川家によって当主を暗殺されたりしてますけど・・

(直虎の許嫁だった井伊直親)

 

 

 

それにしても、

 

信長がその勢力を大きくすることになった桶狭間の戦いによって

井伊家はその時の当主を失い路頭に迷い(直虎の父、井伊直盛)

信長がその勢力を大きくしていく最中、井伊家は一度家がなくなり

やっとのことで家が再興できて良かった・・となった矢先、

信長にとっては武田氏を滅ぼしてほぼ向かう所敵なしとなった矢先・・

信長も直虎も死ぬという(笑)

 

織田信長と井伊直虎自体は

直接やり取りすることはほぼなかったんじゃないかと思われますが

なんとも運命的なものを感じますよね。

 

「直虎」での信長、家康役について、秀吉や真田は?

 

その織田信長は、「直虎」では市川海老蔵さんが演じるそうです。

直虎と「表と裏」みたいな関係なので、どういう風に演じられるのか楽しみですね。

 

そういえば、徳川家康は阿部サダヲさんが演じていますが

真田丸では内野聖陽さんが演じていました。

真田丸での徳川家康は若い頃よりも、どちらかというと歳をとってからのイメージが強かったですよね。

それは真田信繁(堺雅人)からみたら世代が上の人だからだと思います。

 

「直虎」においての徳川家康は、本能寺の変で信長が死んで、命からがら三河へ逃げ帰る、というところまでしか描かれないと思われるので、どちらかというと若い時しか描かれません。

本能寺の変の時で家康は39歳ですかね?

 

阿部サダヲさんは家康が16歳ぐらいの時からの役を「直虎」では演じているので(笑)

内野聖陽さんとはまた違う家康像を作り上げられることは間違いないと思います。

(まだ天下人になると想像もされなかった時代で終わる)

 

 

そういえば、豊臣秀吉は・・・直虎では登場するんでしょうか(笑)

 

秀吉も、仮に登場しても

さほど活躍はしないでしょうから・・

名前だけ?かもしれませんね。

 

 

きっと真田信繁は登場しないでしょう(笑)

 

「真田丸」においては、実は井伊直政は登場してもおかしくなかったのですが

登場しませんでした。

きっと今年の大河ドラマが決まっていて、真田丸で変に出してしまってイメージがつくと、

次の大河がやりづらくなる、という配慮からだったのかもしれません。

 

逆に、「直虎」にも真田家は出てこないんでしょうね。

 

まあ・・真田家は、井伊家にとってはあまり関係ないところで生きていると思うので

登場する必然性もないと思いますけどね。

 

 

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今川氏真の人生 #おんな城主直虎

大河ドラマ「おんな城主直虎」では

 

駿河遠江を支配した東海道の弓取りと呼ばれた偉大な父

今川義元(春風亭昇太)の息子として

桶狭間の戦い後に今川家の当主となった人だが

ちょっと頼りない人として描かれている今川氏真(尾上松也)。

 

今川家がこのあとどうなるのかは・・なんとなく知っている人が多いのではないでしょうか。

 

義元が織田信長(市川海老蔵)に桶狭間で討たれたあと

今川家はどんどん崩壊に向かっていき

最終的に、駿河は武田信玄(配役未定?)に、遠江は徳川家康(阿部サダヲ)に取られてしまい、今川家は滅亡・・

 

という感じです。

 

が、しかし、その時に今川家の当主だった今川氏真がどうなったのか?については詳しく知らない人が多い。

 

実は武田と徳川に追い詰められて自害して果てたとか、討ち死にした、とか

そういう死に方はしてないんですよ。

http://odajorighee.tumblr.com/post/159283477081/今川氏真-登場人物-nhk大河ドラマおんな城主-直虎から

 

今川氏真が死んだのは

1615年12月28日 江戸で死去 享年77歳

 

え〜〜っと・・1615年というと

大坂夏の陣があった年です(笑)

 

徳川家康が豊臣秀頼を大坂城で攻めて、落城させた年。

実はそんな年まで今川氏真は生きていたんですよ!

しかも死んだのが、江戸という(笑)

 

今川家が滅亡・・駿河遠江から退去したのが1568年

 

それから・・

武田氏が滅び、信長の天下統一が進むも本能寺で明智光秀に討たれる。

その後豊臣秀吉が天下を統一し秀頼を残して死ぬが、家康が関ヶ原の戦いで勝利し

最終的に大坂の陣で豊臣家は滅亡、徳川幕府体制が確固たるものとなる

 

という世の中の流れを全部見届けて、それから死んだということなんですね(^o^;

 

これ自体、知らない人が多いんじゃないでしょうか。

 

今川氏真は今川家滅亡後にどうやって生き延びたのか?

「今川家滅亡」と書きましたが、これは駿河遠江から追放されたという意味で

今川家自体は氏真が生きている以上、滅亡はしていません(笑)

それどころか、実は、江戸時代は徳川家の家臣「高家旗本」として存続していたんです。

ある意味ではすごいですよね。

戦国大名ってたいてい、合戦に負けて滅ぼされたら

その一族郎党皆殺しにされて断絶するという場合が多いと思いますし。

 

なので、今川氏真はうまくこの戦国の世を生き抜いたわけなんです。

 

ではどうやって生き延びたのか・・?

 

 

1560年に桶狭間の戦いで父・今川義元が死亡。

その後、徳川家康に離反され三河を手放すことになるも、なんとか8年間は領国を守っていました。

 

しかし、1568年に武田信玄が駿河に侵攻してきます。

武田信玄の子、武田義信には今川氏真の妹が嫁いでいたんですが、この武田義信は父・信玄への謀反の疑いがかけられ幽閉→死去していました。

そこから武田との同盟関係は悪化していました。

さらに武田信玄は徳川家康と結ぶことで北と西から今川の領国を切り取り始めたという。

このときに、東にいた北条氏は今川氏に味方をしてくれました。

 

最後には居城のあった駿府のある駿河から遠江に追い立てられ

最終的に、徳川家康に追い詰められて降伏、こうして今川家は戦国大名としての名前は消えました。

 

そこから氏真は北条氏を頼ります。

氏真の妻は、北条氏康の娘である早川殿であったことが大きいと思います。

 

氏真は北条氏の本拠、小田原に屋敷を与えられていたそうです。

もし駿河の支配権を再度獲得した場合には、北条氏政の子、のちの氏直に駿河を譲ると約束していたそうですが、それが果たされることはありませんでした。

 

北条氏康が亡くなって氏政の代になると北条と武田は和睦したため

今川氏真は徳川家康を頼ったそうです。

家康にとっては、駿河を自分のものにしようと考えたときに

旧国主だった氏真を庇護することは大義名分を得るのに都合が良かったのではと言われています。

 

その後、京都にいって、父の敵である織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したり

という謎(笑)行動もあるんですが(信長が望んだとか)

 

織田・徳川連合軍と武田氏が戦った長篠の戦いでは織田・徳川軍に協力

 

そのあとも紆余曲折ありつつも、

浜松→京都と移り住む

 

京都にいたころには、豊臣秀吉(もしくは家康)から与えられた領地からの収入で生活していたとか。

 

家康はいいとしても、秀吉からもらっていたとしたら

どんだけうまいこと取り入る才能があったんだという(笑)

 

その後、江戸に屋敷を与えられて、

江戸で最期、亡くなったそうです。

 

 

家が滅びる=一族全員死亡

みたいな時代に、生き延びて、しかもその後に子孫を残したというのは

ある意味ではすごい人かもしれません。

 

戦国時代から豊臣時代までは残った大名でも

徳川時代に改易されてなくなった家なんかもいっぱいありますからね。

 

今川家はもともと公家との関係も深かったので

そっち関係で徳川家に重宝されたようで。

 

吉良家と並ぶ高家旗本筆頭として今川家は存続します。

そして明治維新まで続くという・・・

 

明治維新時に当主だった人が子に先立たれた

ということがあったそうで、ここで今川氏は断絶したそうです。

 

 

和歌や連歌といった文化的なことに才能はあったそうです。

まあすべての歌が良かったわけではないそうですけどね。

 

他にも実は剣術に優れていたのでは?

という話もありますし

 

信長の前で披露するほどですから、蹴鞠もうまかったのでしょう。

 

 

「大名」として領土を守る、広げる力はなかったにしても

これだけの時代の濁流の中で人に頼って生き延びられたというのは

 

人に気に入ってもらえる才能があったことは間違いないんじゃないでしょうか。

 

 

東京の杉並区には、今も「今川」という地名があるそうです。

これは高家旗本となった今川家にちなんだ地名なんだとか。

 

静岡のイメージが強い戦国大名家の今川家ですが・・

東京にその足跡があるというのは想像してませんでした。

今川 (杉並区) - Wikipedia

 

東京の今川にある、観泉寺に、今川氏真とその妻早川殿の墓はあるそうです。

 

 

見逃し配信動画の視聴方法、無料視聴の方法もある!

YouTube等に公式以外でアップロードされている違法動画をみるのはやめておきましょう(^_^;)

法律違反なだけでなく、画質が悪かったり、削除を免れるために音の高さを変えていたり、画像を反転させたりした状態になっているものが多く、

正直、元の状態とは程遠い、別物をみてるような感じになります。

 

また、ウイルス感染や変な契約を知らないうちに結んでしまう等の被害の可能性もありえますので、絶対におすすめしません。

ちゃんとした配信の動画をみるようにしましょう!

 

公式に無料で視聴する方法もありますし、仮にお金を払ったとしても1話だいたい300円ぐらいのことです。変な危険を犯してしかも変な映像をみせられるぐらいなら、ちゃんとしたものをみた方が良くないですか?(^_^;)

 

ここでは、とくに、

公式に無料で見逃し視聴できる動画配信サイトをご紹介したいと思います!

 

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1.下のバナー画像をクリックして公式サイトに行きます

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3.次にクレジットカード情報を入力

クレジットカードを登録するのは、無料期間中に解約されなかった場合に

会費が請求されるためです。無料期間中にちゃんと解約すれば、請求されることはありません(^_^;)

 

 

これで「31日間無料」の登録が完了します。3分もあれば可能!!


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もし無料での視聴が希望であれば、視聴するのは無料対象のものだけにして、
登録から31日経過する前に解約すればOKです!!

 

 

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ちなみに、早めに解約したら、その時点からみられなくなりますので、ご注意を。

 


1.「設定」の中にある「お客様サポートページ」から「お客様サポートページ」にログイン 


2.メニュー「ご契約内容の確認・手続き」→「ご契約内容の変更」

 

3.「現在のご契約の変更・解約」をクリック

 

4.「ビデオ見放題サービス」の右端の「解約」ボタンを選択

 

5.表示された画面を確認、画面下部にある「手続きを継続する」を選択

 

 

6.次に「ビデオ見放題サービス 解約前のお知らせ2」というページを確認し
下部にある「手続きを継続する」をクリック

 

7.「ビデオ見放題サービス 継続特典のお知らせ」が表示されるので
画面を確認し、下部にある「手続きを継続する」をクリック

 


8.アンケートが表示されるので、解約理由を選んで「手続きを継続する」をクリック

解約の確認のポップアップが表示されたら「OK」をクリック

 


解約手続き完了の画面が表示されて、
解約が完了になります。

 

 

解約になっているかを確認する方法


「ご契約内容の確認・手続き」→「現在のご契約の変更・解約」

「現在、お客様が解約できるサービスはありません」のような表示が出ていれば良し

 

 

 

※この記事公開時点の情報です。契約・利用は自己責任でお願いします

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