わかっているようで正確にはわかっていないかもしれない言葉シリーズ。
穿った
うがった
「うがった見方」というように使われますよね。
「うがった見方をする」と言われると、何かちょっと悪い印象がありませんか??
でも、本当に悪い意味だけの言葉??
★ 穿つ(うがつ)・穿ったこと・穿った見方
1.裏に隠れた事情や細かい事実、また、世相や人情の機微を的確に指摘する。
2.特に、普通には知られていない癖や欠陥を指摘する。 類:●詮索する
「悪く歪めた見方」「疑ってかかるような見方」「邪推して」のような解釈は誤用
from
「誤用」と言い切っていいのかな・・・?
これだけだと、良いとも悪いとも取れる感じでは・・?
また、新聞等でも明らかに悪いほうの意味で使われていることもあるようですし。。
もう少し詳しく調べておこうかと。
「穿つ(うがつ)」の意味を知れば、もう少しわかりやすいかと。
[動タ五(四)]《上代は「うかつ」》
1 穴をあける。掘る。また、突き通す。貫く。
「雨垂れが石を―・つ」「トンネルを―・つ」
2 押し分けて進む。通り抜けて行く。
「石は灌木の間を―・って崖の下へ墜(お)ちた」〈鴎外・青年〉
3 人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。
「―・った見方」「彼の指摘は真相を―・っている」
4 袴(はかま)・履物などを身に着ける。履く。
「夏といえども其片足に足袋を―・ちたり」〈子規・墨汁一滴〉
5 新奇で凝ったことをする。
「紋も模様も大きに―・ち過ぎて賤しき場もありしが」〈洒・浪花今八卦〉
[可能] うがてる
(動タ五[四])
〔補説〕 上代は「うかつ」
[1] 穴をあける。貫き通す。
岩を―・って道を通す
石をも―・つ信念
[2] 事の裏面の事情を詮索する。人情の機微などをとらえる。
―・った見方をする
―・ったことを言う
[3] 袴(はかま)・履物などを身につける。はく。
小倉の袴の…を―・ち〔出典: 当世書生気質(逍遥)〕
[4] 普通の人とは違った、新奇で凝ったことをする。
紋ももやうも大きに―・ち過ぎて〔出典: 洒落本・浪花今八卦〕
〔補説〕 「うぐ」の他動詞
〔可能〕 うがてる
広辞苑によると
「普通には知られてないような所をあばく、微妙な点を言い表す」
ということだそうです。
穿つ=穴をあける、貫く
これが一番基本の意味みたいですね。
「雨だれ、石(岩)をもうがつ」ということわざもありますし。
本来の意味は「穿つ」=深く掘り下げる、なので
「穿った見方」とは、「深く考えた見解」
◆「穿った見方」を良くとらえた場合:
【素直に(無邪気に)みればこうだけど、ちょっと角度をかえて、より真実に接近してみようとすると違って見える場合のその違った見方】
ポイントをついてる、よく捉えている
賢い見方、洞察力のある見方、物事の真相をよく考えて、或いは人の本性を考えて、表面的に理解しないこと
「お前の見方はいつも皮相的だ。もっと穿った見方が出来ないのか」
「さすがに部長はいつもうがった見方をされますね。」
◆「穿った見方」を悪いほうでとらえた場合:
【ちょっとひねくれて意地悪に見る】
「裏を考えすぎた」
「詮索するような見方をする」
結局、いい意味に使うのか、悪い意味で使うのか、
それともどちらでもありなのか・・・(笑)
まあ言語学者ではないので、正確なところはなかなかわからないんですが。
そして、言葉の意味も「時代とともに変わっていく」という人もいるので
一概に「これが正しい」とはいえなさそうですけど。
もう少し掘り下げて・・・
「うがった」は「良いこと」なのか「悪いこと」なのか。
ヒントになることを
を参考に。
「彼はうがった見方をする人だ」
もともとは褒め言葉のはずですが、最近は必ずしもそうではないようですね。一種の皮肉、批判と取れる使い方をされますね。なぜなら真相をついた見方は、凡人のものではないので、凡人(多数派)は、そこまで考えることはなかろう、もっと素直にとってもいいではないか、彼はいつもあんなふうに穿った見方ばかりしている・・・などと使います。一世代(30年)も経てばこちらの使い方が勝つてしまうかも知れません。今は過渡期だと思います。
「凡人が考え付かないことを考える=なかなかすごい人」ととれば褒め言葉ですけど、
「凡人が考え付かないことを考える=変な考え方をしている人」ととれば貶す言葉に。
なんか、昔よりも今の方が「凡人が考え付かないことを考える=変な考え方をしている人=ズレてる人」ってとらえられる回数が増えちゃったのかもしれないですね。
「裏を考えすぎた」という意味に使われることが多いですね。
では、何故、こういった本来の意味と異なった使い方になったのか考えてみました。
本来、「穿った見方」は、いい意味で使われていたが、深く掘り下げすぎる見方は、「独特の考え」=「考えすぎ」と受け取られることも多く、その場合に「穿ちすぎた見方」という表現が発生したのではないでしょうか。これが、言い回しを略して、「穿った見方」になったのでは?
つまり、正しい表現は「穿ちすぎた見方」ではないかということです。
これはとっても納得。
つまり「うがった見方」は褒め言葉だけど、「うがちすぎた」のは良くない。「うがちすぎた」言い回しが省略されて単に「うがった見方」となったと。なるほど。
「うがった見方」をした論説者に「なるほど、そういう考えもあるのか、凡人の自分には気が付かなかったわい」と読み手(聞き手)が感心すれば、その「うがった」は「洞察力のある、ポイントをついた」意味となるし、「そんなアホな、そりゃぁアンタの考え過ぎや」と思えば、その「うがった」は「ちょっとヘンテコな、自分には理解出来ない」意味となるような気がします。つまり、「うがった」見方をした論旨(論者)への、読み手(聞き手)の共感度が、この言葉の受け取り方にけっこう影響するような気がしますね。
こちらでいうと、文脈から判断するしかないということ。
結論!!
「うがった見方」は難しい言葉(笑)
褒め言葉のつもりで使っても、けなされていると思われる可能性があるし、逆もありえる。
・・・ので、勘違いを与えないと自信がある相手(もしくは勘違いが発生したら訂正できる相手)以外にはあまり使わない方が無難っぽいです。
もとは良い意味だったようなので、悪い意味で使っている人に「それは誤用だよ、間違った使い方だ」って言ってしまう人もいそうですが、言葉の意味は時代で変遷していくと言われているし、誤用の方が意味として広まってしまっているのなら、結局そういう意味で取られてしまいます。
新聞等でも比較的わるい意味で使われている時があるようなので・・・
人へ指摘するのもどうかと。
元の意味はこういうことだ。
ぐらいで知っておきますか。