ひなぴし ドラマ考察

会いたくて、会いたくてふるえるシンドローム。トケルのブログ。

真田幸村が豊臣秀頼に、徳川家康へ従うよう説得できていたらどうなったのか

NHK−BSプレミアムで放送されている「英雄たちの選択」が好きです。

毎週観ているんですが・・

 

2016年1月14日に放送された「大坂の陣400年 真田幸村・決戦へのジレンマ」が面白かったです。

 

その内容でとくに面白いと思ったのが、この放送で最後にあったコーナー

「歴史のif」を考える

 

ということで、歴史学者の磯田道史氏が想像したものを発表するコーナーです。

 

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「真田幸村は大阪夏の陣の時にどういう選択をするのがベストだったか」

というところで3つの選択肢

 

1.大坂城を退去する

2.恭順策を進言

3.家康と決戦

 

これ、実際には「3」を選んだわけですが

実際にはどれが良かったのか、というのを出演している各分野の専門家が話し合っていました。

 

 

これを受けての磯田氏のコーナー。

 

 

「もし幸村が恭順策を進言して、秀頼が家康に従うことになっていればどうなっていたか」

という話です。

 

これがなんだか面白かった・・

 

★豊臣家は一大名として残ることになる(恭順するかわりに大坂の領土安堵等の条件はとりつけるとして)

★史実では1年後に家康が病死する

★すると、ふたたび豊臣家に従おうという大名が出てくる可能性がある

★当時の朝廷は家康との関係はよくなくて、秀吉の恩義を感じている

★秀頼と朝廷の関係がよくなる

★さらに、17年後には秀忠もなくなる

★徳川家は内部対立が激しくなる(三代家光とその弟の後継者争い等)

★その間に、豊臣家が朝廷から「徳川追放」の命令を引き出す可能性がある

★・・となると、もしかしたら首都が東京ではなく大阪になっていたかも・・

 

実は、徳川家康の頭にこういうシナリオがあったのではないか

だから、それを避けるために、無理やりにでも豊臣家に戦いを挑んだのではないか

ということでした。

 

なるほど。。

秀頼はまだ若かったですからね・・

 

時間を稼ぐことができれば、いろんな可能性が広がっていたことは否めませんね。

 

 

ちなみに番組内で「惜しい」とされていたのは、大坂冬の陣の時点で

幸村が主張していた「大坂城からうってでて、野戦で決着をつける」をもし実行していたら

もしかしたらそこで勝利できていたかもしれない、という話。

 

豊臣方の実力者、大野治長らに反対されて採用されなかったのですが。。

 

実際には、大坂城に籠城していたわけですが

真田丸で徳川軍に大打撃を与え、それによって家康は講和工作に走ったのではと言われていますし。。

 

 

有名な、冬の陣の講和条件で大坂城の堀を埋めるという話、

豊臣方と徳川方で協力してある程度時間をかけて埋めることになっていたとか。

 

それなら・・ゆっくり作業をやって、遅れ遅れにしているうちにきっと家康はしぬだろう

みたいな甘い予測が豊臣方にはあったのではないかというのもありました。

 

実際には、徳川方によって速攻で埋められてしまい、そしてすぐにまた夏の陣・・となってしまったわけで。

 

 

やっぱり、何事も自分の都合の良いように解釈してはいけないですね(^_^;)

 

勝利者というのは、いつも、自分の最悪の状況を想定して、そうならないためにどういうことをどういう手順でやっていけば良いかを考え、それを着実に実行していく

そういうものだ

 

という話もありました。

 

 

歴史を学ぶっていうのは、こういうことを学ぶことなんだなーとなんとなく感じましたねー

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