NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」は
2017年12月17日放送です。
大河ドラマとしては、視聴率はあまり高くない、いやむしろ悪かったのかもしれませんが…
総じてテレビの視聴率が下がっている中、過去の大河ドラマ作品と単純に比較しても意味がないと思います。
女性主人公で最近は視聴率が良かったことがなく、また完全に無名と言っても過言ではない主人公だったので、
視聴率は取れなくてもしかたないんじゃないか?という気がしますが、いかがでしょうか(^_^;)
僕にとっては、大河ドラマとしてはかなり新鮮で、今までにない感じだったなと、
結構楽しめるドラマだったと感じています。
直虎、もうとっくにクランクアップしたのいね
— ゆぜ子@DIQ次は福岡 (@saru5542) 2017年12月7日
終わるの寂しいな(∩´ ̫`∩)#あさイチ pic.twitter.com/mJJQ1JTN1A
楽しめるドラマだっただけに、終わってしまうのは寂しい・・
続編とかないのかな・・なんて思ってしまいますが
大河ドラマは通常は続編や映画化というのは無いと思われます。
大河ドラマで続編があったものというと
「新選組!」です。
あれは異例中の異例だったとか。
しかも、主人公は出ていないので、スピンオフにあたるのかもしれませんね。
主役の近藤勇が亡くなったあとの、土方歳三を描いた作品でした。
スピンオフ・・真田丸でも期待はされますが、なかなか難しいでしょうね。
ちまたでは、直虎の続編というよりも
この「おんな城主直虎」の徳川家メンバーで、その後の徳川家・・
おそらく豊臣家滅亡ぐらいまでを描いてほしい
という要望が多いようです。
阿部サダヲさんの、ちょっと弱腰で人の良い家康というのが
けっこうめずらしい感じでしたからね(^o^;
「おんな城主直虎」は
主人公やその周囲の人たちがみな無名であることをうまく利用して、
通説として言われていることをそのままやらずに、新しい解釈でみせる
そんな感じだったので、歴史ドラマでありながら、先が読めない展開になることが多く、ドラマとしての完成度が高かったのではないか?と感じています。
まあ、、「歴史に忠実に!!」みたいな人からの評価は微妙かもしれませんけどね。。
けど、過去の大河ドラマも決して歴史通りに全てを描いてきたわけではないと思うので、これぐらい振り切ったドラマがあってもいいのではないか?と僕は思います。
「井伊谷」という遠江の一地域の話で、「一国の大名」と言えるようなクラスの有名どころとは、スケール感が全く違いましたが、
そこも、スケールが小さいからといってドラマ性がない、ということではありませんでした。
安易に合戦のシーンが多用されず、むしろ戦いのシーンはほとんどなかったのも、僕としては評価が高いところです(井伊直虎という人は戦には出ていない人でしょうし)。
井伊直虎という人は、織田信長とほぼ同時代を生きた人で、
本能寺の変のあと、直虎も死にます。
井伊直虎と同年代の戦国武将は誰?生年月日、死没、石高は? #おんな城主直虎 - ひなぴし
その頃はというと、、
羽柴秀吉が明智光秀を山崎の合戦で破り、
信長の後継者を決める清洲会議で、自分の息のかかった信長の孫を後継者に据えて…
という時期ですね。
大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送が終了しても…続きが気になりますよね(^_^;)
このあと井伊家はどうなるのか?井伊家の未来・将来は?
万千代は?
「おんな城主直虎」を観終わって、このあとのお話が気になる方のために
ざっくりではありますが、ストーリーを書いておきたいと思います。
井伊家、井伊直政の人生、将来、未来、行く末、これからのことです。
※ちなみに、僕なりの解釈で書いているので、もしかしたらこれは違うぞ!?というのがあるかもしれませんが、多少のことはご容赦を。。
井伊直虎が死んだ頃
井伊直虎が亡くなったのは、天正10年(1582年)8月26日と言われています。
46歳ぐらいではないか?と言われていますが、生年月日が不明なため、正確にはわかりません。
ただ、織田信長が49歳で死んでるのでほぼ同年代でしょう。
井伊直虎と同年代の戦国武将は誰?生年月日、死没、石高は? #おんな城主直虎 - ひなぴし
この頃、万千代は21歳でした。
本能寺の変が起こったのが、天正10年6月2日(1582年6月21日)なので
織田信長が死んで2ヶ月後に井伊直虎は亡くなっています。
6月13日には山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破っていますので
徳川家康は明智光秀を討つべく、三河へ戻ったあとに兵を整え
尾張まで進軍するも、そこで秀吉によって光秀が討たれたことを知り進軍をやめたそうです。
それと同時に、織田信長が死んだことによって織田領(正確には織田家臣の領地)になっていた信濃・甲斐が領主不在のような状態になってしまっており
そこを狙って行動を起こしたようです。
こうして起こったのが「天正壬午の乱」です。
2016年大河ドラマ「真田丸」で、真田昌幸(草刈正雄)が何度も臣従する相手を変えて生き残ったあの戦いです。
天正壬午の乱は、天正10年(1982年)の6月〜10月頃と言われていますので
まさに井伊直虎が亡くなる頃はその真っ只中だった、ということになります。
万千代は家康についてまわっているでしょうから、忙しくしているさなかに養母である直虎が亡くなった・・ということになるんですかね。
天正壬午の乱の使者を務め、武田家臣をまとめる
簡単にいうと、
徳川家康・上杉景勝・北条氏政(氏直)が
織田信長が死んだことにより主君不在となった旧武田領をめぐって争った戦い、その総称が天正壬午の乱です。
それらの大名たちに挟まれる形でそこには真田昌幸がいます。
真田氏は北条、上杉、徳川の元を渡り歩いて、自分の領地を守りました。
ただ、その中で、徳川氏・北条氏と遺恨を残します。
最終的に徳川と北条は和睦を結ぶのですが、そのときに
信濃・甲斐は徳川、上野は北条、
というような取り決めをします。
徳川に形上従属したようになっていた真田氏は、上野の沼田に領地を持っていました。
徳川が北条に「上野は北条のもの」と真田に承諾なく認めてしまったので、真田は猛反発します。
結局明け渡されず・・そののち、徳川の金で建てた上田城へ真田は本拠地を移してそのまま上杉へ寝返るという(笑)
まあ、このあたりは2016年大河ドラマ「真田丸」をみてもらうのが良いと思いますが・・
このとき、徳川から北条へ使わされた使者というのが井伊万千代だったそうです。
・・ということは・・形上は、万千代が「上野は北条のものですよ」と言ったことになりますね(^o^;真田氏にとっては憎き井伊・・だったかもしれません。
まあ、万千代の独断のわけがないので、基本的には家康の考えだとは思いますが。
こんなところで実は、「真田丸」とも関わっていたんですね。
こうして、甲斐・信濃は徳川領となっていくのですが
その中で、万千代は徳川家による旧武田家臣の本領安堵の取次役を務めていたそうです。(他にもそういう人はいたと思いますが)
その縁か、旧武田家臣たちは井伊万千代の部隊に組み込まれます。
こうして、武田家臣山県昌景が率いていた赤備えの部隊がそのまま、井伊の赤備えとなっていったそうです。
この武田家臣を部隊として取りまとめる役割を担うようになり、
万千代は徳川家の重臣の1人となったそうです。
元服し井伊直政へ名を改める、そして結婚
天正10年(1982年)11月頃に、万千代は元服し、井伊直政と名乗ることになりました。
井伊直政の名前は井伊直親と小野政次から一文字ずつ取って名付けられた説 #おんな城主 #直虎 - ひなぴし
こうしてみると、井伊直虎が亡くなってから元服しており、
本当に大河ドラマ「おんな城主直虎」のように、直虎が生きている間は
直虎を井伊家当主としていたのかな?という気がしますね。
天正11年(1983年)1月、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚します。
秀吉政権
天正12年(1984年)に起こった家康と秀吉の戦い、小牧・長久手の戦いでは池田恒興を打ち取るなど武功を上げ
赤備えの部隊を率いていたため、「井伊の赤鬼」と恐れられるようになりました。
天正13年(1985年)には、寝返った真田氏と徳川氏の戦い「第一次上田合戦」にあとから参戦します。
あの・・徳川家が小領主である真田氏にボロボロに負ける戦ですね。
この戦いには、簡単にいうと、徳川家の「1軍」と呼べるような主力部隊は投入されていませんでした。おそらく、簡単に倒せると考えていたためと思われますが・・
ただ、負けてしまったため、これはいかんと主力の1つである井伊直政の部隊を投入します。
しかし結果として、直政は「撤退」を指揮する、という役割になったようです。
天正14年(1986年)には家康が上洛して秀吉に臣従します。
そこで秀吉から直政は気に入られたらしく
官位を授かり(従五位下)さらに「豊臣」という姓まで受け賜ったとか。
豊臣直政ですね(笑)まあ、家康の家臣ですし、さすがにその名でどんどん活動した、ということはないようですが・・。
直政はこのとき25歳くらいだと思います。
相当、才能あふれる感じだったんでしょうね。一家臣でそこまで秀吉に評価されるとは。
おそらく、秀吉は直政のことが欲しかったんじゃないでしょうか。家臣として。
秀吉は井伊直政を徳川家から引き抜こうと考えたのでしょうが、それは失敗に終わりました。
石川数正なんかは、家康の元から秀吉に寝返ってますからね・・
#おんな城主直虎 第39話 虎松の野望 あらすじ/ネタバレ/Twitter感想考察まとめ/展開ストーリー予想、鷹匠ノブは本多正信、石川数正はいずれ豊臣へ裏切る - ひなぴし
ちなみに、上杉景勝の家臣、直江兼続なんかも誘いを受けていたようです。
天正16年(1588年)徳川家中の家臣で最も格式(官位)が高い重臣になりました。
これは秀吉直属の大名たちと同列です。
そのときの徳川家筆頭家老の酒井忠次よりも上の官位だったそうです。
このときには「藤原直政」という署名を使っていたそうです。
「もともと井伊家は藤原家の末裔なので」という理由で豊臣姓を辞退したとも言われていますが、仮に豊臣姓でも、このとき豊臣秀吉は摂関家の一員となり藤原姓を名乗ってから豊臣姓へ改姓していますから、どちらにしても「藤原」と名乗られるのかもしれません。
天正18年(1590年)小田原征伐では、唯一小田原城内にまで攻め込んだ武将として直政は知られることになり、その後、奥州(東北)平定を豊臣軍がすすめる際にも先方を務めるなど活躍した。29歳頃
徳川家臣団で最高の12万石を領する
小田原征伐後の領地替えで家康が関東へ移り江戸に入ると
井伊直政は、上野国・箕輪城の城主になりました。
このときに与えられたのが12万石という、徳川家家臣団で最高の石高です。
ついに、井伊家は徳川家の家臣の中で最も大きな家になりました。
慶長3年(1598年)高崎城を作り、居城を移します。37歳頃。
そのとし、京都に家康とともに居るときに秀吉が死去、
この頃には、直政は黒田孝高(黒田官兵衛)・黒田長政親子らなど豊臣方の武将たちとの交渉を積極的に行い、徳川家と親しい関係を築くことに成功したそうです。
この黒田家が小早川秀秋や吉川広家、福島正則らと親しく、その後の関ヶ原の戦いの勝利につながる役割を果たしたと考えられています。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは家康本軍とともに行動し、
東軍の中心的役割を任されていたそうです。
また、同時に外交でも力を発揮し、各地の大名を西軍から東軍に取り込むことに成功したとか。
黒田家と親しくしていたことは関ヶ原の戦いでかなり効果があったと思われ
黒田家の働きかけにより吉川広家が動かなかったことにより、家康たちを囲むように布陣していた西軍の毛利隊は全く攻撃をしかけませんでした。
ちなみに、関ヶ原の戦いの開戦は井伊直政によるものとされています。
東軍の先鋒は福島正則隊とされていたのに
井伊直政は娘婿である松平忠吉(家康の子)を連れて、「忠良は初陣であるので戦見物を」と言いながら少ない兵を引き連れ前線へ出ていき攻撃をしかけた
とされています。
本来なら決まっている先鋒を差し置いて一番槍を果たすのは重大な違反だと思いますが
これは直政が「秀吉譜代の大名(福島)が関ヶ原の戦い で手柄を立てた」となると、徳川の威信が損なわれると判断し、無理やり行ったものではないか、とも言われています。
結果として、関ヶ原の戦いは徳川家が始めたような形になり、島津豊久(島津義弘の甥)を討ち取るなど軍功を上げました。
本来なら処罰されるはずが・・家康も処罰はしなかったそうです。
福島正則からは、これは大きくクレームが入ってもおかしくない出来事なのですが
福島からもそう大きい抗議はなかったとか。(家康の関ヶ原後の権力強化により言えなかっただけなのか)
まあ、霧がかかっていたそうなので、本当に偶然の出来事だった可能性もありますが(笑)
ただ、それぐらい、徳川家のことを考えて行動している
ということがよくわかる逸話です。
少ない兵で、というのも、完全に「自分を犠牲にしてでも」というのが現れていますし。
島津隊はこのあと、退却するのですが
そのときに驚くべき方法で退却します。
「島津の退き口」と呼ばれる、いわゆる正面突破の方法です。
まさか正面突破してくるとは思っていなかった東軍諸将は道を開けてしまったそうですが
直政はその島津軍を追撃し、大将である島津義弘の首を取る目前まで迫ります。
あまりのスピードに家臣たちも追いつけず、直政が1人で駆けていっているような状態だったとか。
がしかし、そこで島津軍が放った鉄砲が直政に命中(右肘関節?右肩?左腕?とも言われる)し落馬してしまいます。39歳頃
関ヶ原の戦い後の外交
関ヶ原の戦いでは大怪我を負ったにもかかわらず西軍についた武将たちの処遇などについて、その武将と徳川家の間に入り交渉を行いました。
西軍総大将だった毛利輝元には周防・長門2カ国の安堵がなされ
直政は大変感謝されます
さらに激しく戦った相手でもあり、自分に大怪我を負わせた島津家との和平交渉でも井伊直政は手腕を発揮し、なんとか島津家の存続を取り付けた。
また、真田昌幸と信繁(幸村)の助命についても
真田信之からの申し出を受け、尽力したそうです。
彦根18万石の大名に
関ヶ原の戦いでの功績を讃えられ、井伊直政には、石田三成の旧領である
近江国佐和山(滋賀県彦根市)に18万石が与えられました。
この場所を井伊直政へ家康が与えたのは
京都に近く有事には朝廷を守ることができ、また西国に目を光らせることができる
という意味があったそうです。
井伊直政、死去
慶長7年(1602年)2月1日に井伊直政は42歳で死去します。
死因は、関ヶ原の戦いでの傷(銃槍)と言われています。
死に至るほどのケガを負わされたのに、その傷を負わされた島津家のために徳川家との交渉役を務めるとは・・本当にあっぱれです。
なので、井伊直政は、実はけっこう早くになくなってしまいます。
関ヶ原の戦いが終わってすぐに亡くなる・・
実は、家康が征夷大将軍となって、江戸幕府を開く前に亡くなっています。
(家康が征夷大将軍になるのは1603年)
なので、豊臣家はまだまだ力を持った状態のままです。
18万石の大名にはなったものの、おそらく、徳川家の先行きについては
まだまだ不安要素が多く、心配していたことと思われます。
ちなみに、直政が亡くなったとき、家康は直政にひと目会いたいと言ったとされ
対面できるようにと、風穴でしばらく遺体が保管されていたという逸話があるそうです。
一説には、家康と井伊直政は衆道(男色)関係にあったとも言われているので
なんとなく、そういうことか・・と思わなくもないですが(^o^;
ただ、また別の説として
実は、信長からの圧力で殺すことになった家康の嫡男・信康は
実は井伊直政と入れ替わっていて
そのときに死んだのが実は井伊直政で、その後井伊直政として生きたのが信康だった
という説もあります。
これもなんとなく・・「ひとめ会いたい」に納得できる説ではありますよね。
ただまあ、単純に、
徳川家において、あとから入った中途入社組(家康の昔からの三河の家臣ではなく、元今川家家臣として)でありながら、どんどん功績を積み重ねていき出世していった直政は、どういう理由であれ家康に愛されていたことは間違いないと思います。
直政の死後の井伊家
佐和山城が彦根城として作られ始めたのは、直政の死後のことだそうです。
ただ、もともと石田三成の居城であったことや、作りが古いことを理由に直政自身が計画していたと言われています。
井伊直政の息子の代で井伊家はやや、ややこしいことになります。
長男の直継(のちの直勝)が跡を継ぐものの、病弱(愚鈍であったとも)であるということで
その下の直孝が正式な跡取りとなります。
(直政の遺領18万石のうち、直勝に3万石、直孝に15万石が与えられ、佐和山は直孝が領することになりました)
井伊直孝という人は、大坂冬の陣では真田信繁の策にはまり大損害を出してしまいますが
夏の陣では武功を上げて、期待に答えたということで正式に井伊家当主とされたそうです。
その当時の井伊家は徳川直轄に近いかたちだったそうで、おそらくその裁定もほぼ家康が決めたのではないかと思われます。
そして、井伊家は
彦根藩30万石という、譜代大名としては筆頭となる石高を有する大名になりました。
その後は江戸時代が終わるまで、井伊家は江戸幕府を支える有力な藩として存在し続けることになります。
2018年の大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」には
井伊直弼役で佐野史郎さんが登場します。
その井伊家につながっているのが、この井伊直政の家系です。
西郷どんではなんとなく悪役になりそうなイメージがありますが・・(^o^;
2016年「真田丸」と2017年「おんな城主直虎」にはゆるやかながら
つながりが感じられました。
2018年「西郷どん」にも、うま〜くつながってほしいなと。
期待を込めて見守りたいなと思います。
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