ひなぴし ドラマ考察

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大坂城の城主は織田信長だった #にっぽん!歴史鑑定

BS-TBS「にっぽん!歴史鑑定」で2017年4月10日に放送された

信長VS最強の宿敵・顕如

の内容からです。

 

大坂城の城主は織田信長だった

はずだった

 

 

みたいなことなんですけど(^o^;

 

 

 大坂城を築城したのは、豊臣秀吉というのはみんな知ってると思いますが

実は、大阪という場所はもともと、織田信長が欲しがっていた土地だったんですね。。

 

なので、もし織田信長が本能寺の変で死んでいなければ

ほぼおなじ場所に大坂城を築城していたであろうと言われているんです。

 

 

織田信長が大坂が欲しかった理由は

 

・非常に守りやすい場所である

 信長の時代の大坂はもっと水がいっぱいで、

 現在の大坂城辺りは浮島のような状態だった

 自然の川や海に囲まれ、守りやすい場所である

 

・瀬戸内海につながる港があり、海上交通の要地

 外国からの船も受け入れやすい場所

 

・西日本制圧の足がかりとしやすい場所(しかも京都に近い)

 西日本へ兵を出す、指示を出すには良い場所(中国・四国地方に目が届く)

 その当時反映していた京や堺にも近く経済の拠点といえる

 

 

これら、よく考えたら、けっこう安土城の立地とも共通点があるんですよね。

琵琶湖岸にあることで、そこから流れる川を使えば水運でいろんなことができるし

京都に近い場所で日本の中心あたりにある

 

でも・・

安土の水運って結局、

大坂あたりから瀬戸内海へ出られないと意味がないと思うんですよね。

 

そういう意味でも大坂というのは重要だったのかなと。

 

安土から居城を移すなら・・大坂か、と思ったんだと思います。

 

 

では、織田信長が大坂城を作れなかった理由というのは

 

その場所に石山本願寺がいたからで、その宗主・顕如との戦いが有名です。

 

 

大坂城があった場所にはもともと石山本願寺があったんです。

その当時はそこが本拠だった。

 

お布施により戦国大名を超える財力があり、しかもたくさんの僧兵を抱えているという。

もしかしたら戦国最強の大名が本願寺顕如だったかもしれません。

 

 

 初めは信長からの30億円にも及ぶ矢銭(軍資金)の要求に応じるものの

大坂から立ち退くようにという信長の要求に我慢ならずに反旗を翻しました。

 

この「大坂から立ち退くように」というのが

「大坂欲しい」という信長の気持ちがアリアリとみえますよね。

 

京・堺に近く、しかも本願寺があることで門前町として栄えていた大坂は

経済力もある街だったようで、

軍事的な意味だけでなく、経済的な意味でも、信長は大坂が欲しかったようです。

 

 

キリスト教イエズス会の外国人宣教師が書いた書物にはこう書かれていたとか。

「本願寺は日本で一番大きい宗派である 日本の富の大部分は本願寺の僧侶が所有している」

 

おそらく、庶民からだけでなく、公家や大名といった武家からもお布施をもらう立場であり、それによってかなりの財力をもっていたようです。

既得権益があり、武家の権力闘争の外側にいたようです。

 

織田信長は「天下布武」といっていますが

「公家」「武家」「宗教」の中で、公家と宗教の力を弱め、武士が世の中を治めるのだという意味でこの言葉を使っていたようで

 

権力闘争の外側にいるとはいえ、

寺院が大きな富を持ち、政治に口出ししたり、武力を持つことが許せなかったようです。

政教分離をしたかったと、現在の言葉ならそういうことになろうかと思います。

 

またやっぱり大坂は経済的に豊かな土地で

信長公記にも「そもそも大坂は日本一の土地である、大小の川が網目のように流れ、船の交通もよく、同時に四方が自然の要塞になっている。西は広々とした海で外国の船も出入りする経済力豊かな港町である」と書かれているそうで

 

本願寺顕如のような宗教人が力を持つことが許せない

ということと

欲しい大坂に顕如が居座っている

ということから戦いになってしまったんだと思われますが・・

 

 

織田軍と本願寺軍の戦いである石山合戦は

1570年に開戦します。

この本願寺と織田信長の戦いは10年にも及ぶので・・

 

おそらく、織田信長にとっての最強の敵は、本願寺顕如だったんだと思われます(^o^;

 

もし織田信長が本能寺の変で死なずに

そのまま天下統一できていたとしたら

おそらく、倒すまでに10年かかった相手

は、きっと本願寺だけだったでしょう(笑)

 

 

一向一揆は本当に強かったみたいです。

死ぬことを怖がらない

むしろ戦って死ぬことで極楽浄土へ行くことができると思っていたので

全く怖がらずに戦ったとか。

逆にうしろを向いて逃げたら地獄に堕ちる

そういう話もあったようです。

 

進まば往生極楽

退かば無限地獄

 

こう書かれた旗がかかげられていたそうです。

 

 

実は石山合戦では、織田信長は本願寺の鉄砲砲撃により

足を負傷したそうです。

鉄砲も使いこなしていたんですね。。

本願寺顕如は鉄砲の扱いに長けた傭兵部隊・紀州の雑賀衆を雇っていたとか。。

 

 

要はこの戦いに時間をとられすぎて

結局、大坂を手に入れた直後に織田信長は本能寺の変で死んでしまうため

結局、大坂に城をつくることはできなかった

 

そういうことになるんだろうと思います。

 

 

大坂の石山本願寺だけでなく、長島や越前の一向一揆の鎮圧もあったので

織田信長が一番戦った相手というのも、本願寺&一向一揆だったのかもしれません。

 

 

しかしこの大坂にそのあと、織田信長が死んだあと、

城を建てて

そして天下を統一してしまう人物が現れます。

 

それが豊臣秀吉です。

 

 

おそらく、織田信長が大坂の土地にこだわり

ここに城を築いて天下を取ると言っていたのを

秀吉は聞いていたはずで

 

それを忠実に実行して、秀吉はそして天下を取った・・そういうことになりますね。

織田信長の先見の明がわかる、というところでしょうか。

 

 

しかも、秀吉が大坂城を築城したのは、信長が本能寺の変で死んだ年の翌年ですから・・

それはもう、秀吉も狙っていたとしかいいようがありません(笑)

 

 

ちなみに、秀吉は顕如と和解したそうです。

 

織田信長は大坂を最終的に無傷の状態で手に入れたかったので

顕如の大坂退去で講和することになり、信長死後も顕如は生きていました。

 

 

武力は持てないようにしたものの、寺家としての地位は保証。。

 

そういえば、今現在は

「東本願寺」とか「西本願寺」とかありますが

この顕如の息子2人の分裂によって生じたことだそうです。

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