ひなぴし

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#本能寺の変 信長殺しの真実と明智光秀の謀反の動機/本当の裏切り者は誰か BS-TBS #諸説あり!

本能寺の変というと、最近は・・エグスプロージョンが有名ですが(^_^;)

 

織田さんが家臣の明智にシバカれる、話!

www.youtube.com

 

この動画だと、明智さんが織田さんをシバいた理由としては

・長い間イジられた

・あだ名を「ハゲ」にされた

 

ハゲ??

そんな話あったっけ??とも思われるかもしれませんが

実は、そういう説もあるらしいんですよ(笑)

 

信長の家臣・稲葉一鉄の子孫等が書き残した『稲葉家譜』という史料がありますが

その史料には明智光秀の「本能寺の変」の動機が明記されているらしいです。

 

「信長公、光秀が法に背くを怒りて、以てこれを召し、譴責して手を自ら光秀の頭を打つもの二、三に至る、光秀がびん髪(ぱつ)少しきなる故に常に附髪(つけがみ)を用ゆ。この時これを打ち落とされ、光秀深くこれを啣(ふく)む。叛逆の原本はここに発起す。」

 

↓現代語

「……信長は光秀を怒って呼びつけると、光秀の頭を二、三度叩いた。光秀は髪が薄かったのでいつも附髪を用いていたが、このときそれが落とされたので、光秀は信長を深く恨んだ。謀叛の原因はこれ……」

 

附髪とは「カツラ」のことだそうです。

 

昔は55歳と言われていた光秀は

最近の研究では、67歳だったと言われているそうなので、まあ・・正直ハゲてても全く不思議はないんですが・・(^_^;)

 

そうはいっても、かつらつけてるのはみえみえでしょうから

それが理由で謀反まで起こすとは・・ちょっと、ねぇ・・(笑)

 

そういえば、明智光秀を主人公にしたドラマで、これはとてもおもしろかった記憶があります。

どちらかというと、「良い人」として光秀を描いていたドラマです。

主演の明智光秀役は唐沢寿明、その他には

長澤まさみ、柳葉敏郎、大泉洋、上川隆也らが出演しています。

 

 このドラマだと、たしか、自ら秀吉に討たれるような最期を選んでいたような気がしますが(^_^;)

 

2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」では

明智光秀役は、光石研さんです。

 

 

#おんな城主直虎 本能寺の変は秀吉黒幕説⁉︎明智光秀(光石研)の子・光慶が天海になる説 ネタバレ・あらすじ・ストーリー - ひなぴし

 

「本能寺の変」に謎が多い理由

歴史は勝者がつくっていくものだと言われますが、この本能寺の変でも同じように

やはり勝者によって改変されていたようで。

本能寺の変のあとの勝者といえば、豊臣秀吉です。

豊臣秀吉によって、明智の謀叛に関わる資料がほとんど捨てられてしまったそうです。

おそらく、捨てただけではなく、証言していた人を口封じで殺してしまったり

そういったこともあったんでしょう。

こうやって考えると、やっぱり秀吉に都合の悪いことがあったのかな?と想像してしまうのですが

まあ、直接的にたとえば秀吉が謀叛に関わっていたというパターンだけではなく

秀吉が信長の後継者となって天下を治めるという体制になることに支障があるようなことがあった、ということかもしれません。

どちらにせよ、そうやって本能寺の変の真相はわからなくなってしまったんだとか。

 

明智光秀とは?

美濃守護・土岐氏一族の明智城主の子として生まれる

28歳のとき土岐氏にかわって美濃を治めた斎藤道三に仕えるが斎藤家の内紛に巻き込まれ、明智一族は離散した

諸国を放浪し、有力者の目にとまるため、歌や茶の湯などの教養を身につけ鉄砲や剣術の鍛錬を重ねた

35歳のとき、越前の朝倉義景に召し抱えられそこで足利義昭と出会う

義昭から信長との橋渡しを命じられ、才を買われ信長の家臣となった

金ヶ崎の戦い、姉川の戦い、比叡山の焼き討ち等でめざましい活躍を果たす

1571年、家臣の誰よりも早く一国一城の主となり近江に5万石を与えられる

 

光秀が優秀であったがために信長が嫉妬して

パワハラのようなことをしたことによるパワハラが動機では

 

という話がよくありますが

わかりやすく信長が光秀に手をあげて血が出るほどあたまを柱かどこかに打ちつけたとかいう話等はおそらく後の世の「芝居」で、より面白くするためにつくられた創作の要素が強いのではないかと思われます。

 

また、信長は光秀よりも高い視点から広い視野をもって行動しており、信長が光秀に嫉妬するというのは考えにくいため、

「怨恨説」は疑わしいのではないかと思われます。

 

 

それでは、信長殺しの真実は?本当の動機はなんだったのか??

 

 

世直しのために信長を殺した説

信長の暴走を光秀がとめようとした

小和田哲男氏の主張だそうです。

 

光秀が本能寺の変直後に送った書状に次のような文言があるそうです。

「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」

(「武家事紀」西尾光教宛 光秀書状)

 

信長の悪逆とは

 

1.天皇の上に立つ(譲位をせまる、暦の変更をせまる、安土城に天皇を迎える間があるが、天主から見下ろすような位置に作られている、自分を神とするようにと言っていた)

 

2.残虐行為(比叡山の焼き討ちで女こどもも含んだ3千人を殺害、それを命じられたのが光秀、甲斐の恵林寺の焼き討ちで高僧・快川紹喜も含む多数の人間に火をかけて焼いた、快川紹喜は明智家と同族であった)

 

このようなことが続いては世の中がうまくいくはずがない

という思いで、信長殺害に至ったというのがこの説です。

 

四国攻め阻止のために信長を殺した説

本能寺の変の直前に明智光秀と長宗我部元親がやり取りした書状が岡山県で発見された

長宗我部家と明智家は姻戚関係にあった

長宗我部家との外交交渉は光秀が担当していた

 

信長は本願寺との戦いに忙殺されており、元親に四国の領土を認めた

 

その後、信長が本願寺との戦いに勝利すると、前の内容を反故にし

土佐と阿波半国だけを認める、それ以外は手を引けと元親に言う

 

元親は拒否し対立、間に立っていた光秀は立場があやうくなった

 

光秀は長宗我部家を滅ぼすわけにはいかないと、信長の元親への要求を飲むように

元親へ書状を送った

 

その返信として、元親は信長の意向に沿うという書状を送っている

阿波の城からは撤退している(四国の領土拡大からは手を引いている)

つまり、長宗我部側は信長との関係改善をはかろうとした

しかしこの書状は光秀には届かなかった(事情は不明)

 

信長は息子の織田信孝に元親征伐を命じており、

信孝は大坂で準備を進めていた

 

そして、四国征伐のまさに当日の早朝に

光秀は本能寺の変を起こす

 

長宗我部家と明智一族を守るために、明智光秀は本能寺の変を起こしたのではないか。

四国征伐の開始を阻止しようとしたという説。

 

 

明智光秀の重臣・斎藤利三は長宗我部家と密な関係を示す資料が残っているとのこと。

斎藤利三は光秀をせかしたという話もある

 

 

謀叛の動機は信長の大陸侵攻だった説

ルイス・フロイス「日本史」によると

信長が日本の君主となったら中国を武力で征服し、諸国を子息に分け与えるつもりだった

とある

 

宣教師ヴァリニャーノの書簡によると

スペインが信長と手を組み、大陸征服を目論んでいたという話がある

 

もし、大陸侵攻がはじまったら・・

光秀はおそらく、自分がその最前線に送られるであろうと感じたのではないか。

 

これまでの織田家では、活躍した武将に領地が分け与えられるなど

働き次第で出世ができる環境であったが

本能寺の変が近づいたころになると、家臣たちは次々に各地の最前線へ送られ

逆に信長の子息たちは近江や京など、中央の領地を与えられるようになっていた

 

光秀は丹波坂本からこれから攻める中国の土地への領地転換を命じられていた。

 

日本を統一すればゆったりとした時間が訪れるのではと思っていたところ

大陸侵攻の話がみえてきたことで

おそらく、自分がその大陸の最前線に送られると恐怖したのではないか。

 

明智光秀はこれまで、本能寺の変の際、55歳(信長は49歳)と言われてきたが

最近の研究で67歳だったのではないかと言われている。

今の年齢でいえば80歳とも言えるような高齢であり、また、息子・明智光慶が13歳だったこともあって、

もし自分が討ち死にすればおそらく明智家はつぶされるであろうと考えたはずである。

 

明智光秀の才能は信長も買っていたと思われるので

おそらく、大陸への侵攻となれば命じられる可能性は高かったのではないか。

 

 

明智光秀が自分の意思で本能寺の変を起こしたとすれば

たしかにこの3つの中のどれかの説かもしれないなと思われますね。

 

もし信長が生き残っていたら、このあと悪い政治をどんどん行っていた可能性もあります。

 

そういう意味では、明智光秀に討ち取られたことで

織田信長は「すごい人」という部分だけがクローズアップされる人になったのかも・・しれませんね。

 

 

本能寺の変での本当の裏切り者は誰か?

ここからは後編です。

光秀の単独犯行ではなく、共謀したのではないか、というのがメインのお話しです。

その場合は、やはり、この本能寺の変が起こって誰が得をしたのか?

というところから考えていくと・・

 

その後、天下をとることになる豊臣秀吉か。

もしくはそのまま信長が生きていたら信長から殺されるかもしれない

もしくは信長の駒として大変な苦労をしたかもしれない徳川家康か。

 

そのあたりになってきます。

 

秀吉も信長を殺そうとしていた

2万人の軍勢が中国大返しを、言われている期間が行うことは本当に可能なのか?

 

秀吉と光秀の間には、信長への不満という共通点があったのではないか。

信長殺しを結託し、本能寺の変が起こることを事前に知っていたのではないか。

 

6月2日に本能寺の変、3日の夜に秀吉は知らせを聞く

停戦交渉をして6月6日昼に出発。

わずか7日間で200kmを戻ったとされている

途中では大雨もあり、ぬかるんだ道の行軍もあったはず

 

6月13日には山崎の戦い

 

現代の技術で計算すると、この日程では山崎まで到着することはできない

実はもっと早くに出発していたのではないか

信長の死を知っていて、すでに準備を進めていたのではないかということ。

 

また、急いで山崎に戻って明智と戦ったのは

共犯者である光秀の口封じのためではなかったか

 

 

一説では、大返しの際、秀吉は兵たちに鎧武具を脱ぎ捨てさせ裸で走らせた(先にまた着られる鎧武具を用意しておく必要あり)、また意欲を出させるために金をバラまいたと言われている。

 

これも大返しをあらかじめ考えていたからこそ、その準備ができていたのではないか。

 

また秀吉は道の整備もしっかりと行っていた。

これも自分たちが大返しをする際に、すみやかに通られるように行っていたのではないか。

 

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秀吉の中国大返しについては

いろいろな説があって、やはりもう少し早く出発していたのではというのが最近の有力な説なようです。

 

このあたりの史料も、もし秀吉に都合がわるい内容であれば確実に廃棄されているでしょうから、

いま残る史料は秀吉に都合がいい状態のものだけ、ということかもしれないですね。

 

信長が家康を殺そうとしていた

明智光秀とともに本能寺にいった足軽が残した記録

「我らは上洛中の家康様を討つばかりと思っていた」

 

ルイス・フロイス「日本史」

明智光秀は信長の命にもとづき、三河の家康を殺すつもりであろうと考えた

 

信長からみると家康は危険人物

自分の目の黒いうちに始末しておきたいと考えた

 

背信行為 武田と戦っていた信長は、武田の家臣を匿っていた家康をよく思うはずがない

怨恨   家康の父・祖父・叔父・息子が、織田家や信長の手によって殺されている

 

信長は家康を本能寺に呼び出し、光秀によって殺させようと考えたのではないか

 

それよりまえに、信長は安土城で家康を最大級にもてなし

さらに堺・京の見物を提案し、嫡男の信忠を同行させていた。

 

最大級のもてなしで警戒心をとこうと考えていたと思われる。

 

そして、本能寺に礼を言いに来た家康を光秀に討ち取らせる計画だった。

理由は「家康に襲われた」とする。

そのために、信長自身は非常にすくない手勢であえて本能寺に入っていた。

 

スペインのエル・エスコリアル修道院に保管されたアビラ・ヒロンの「日本王国記」に信長が家臣弥助に向かって話したと言われる最期の言葉が残っている

「わたしは自ら死を招いたな」

 

自分が家康を罠にはめようとしたところ、それを利用する形で光秀によって殺されてしまうという・・

 

 

家康が信長を殺そうとしていた

家康は本能寺の変のあと、「神君伊賀越え」を行っている

家康人生の最大の危機と言われている

 

6月2日午後に本能寺の変を知った家康は

服部半蔵が手配した伊賀者に守られ三河まで帰ったとされている

 

あらかじめ謀叛を知っていた家康が逃亡ルートを確保していたのではないか

 

茶屋四郎次郎が同行していたが、記した記録で

「ご機嫌よく三河へ帰った」としている

命からがら帰ったはずが・・

 

光秀は家康と組むことで、信長を殺しても徳川から襲われる心配がなくなり

また、いまだおさまっていなかった旧武田領の甲斐からの勢力の侵攻も食い止めることができる。

 

徳川諸大名に伝わる文書をまとめた

「寛永諸家系図伝」

「6月6日、甲斐に城を築くように家康が命じた」とある。

伊賀越えをおえて直後に、甲斐へ侵攻しているのだ。

 

また、伊賀越え時の働きを感謝する家康からの書状が熊本細川藩に仕えていた「三宅家史料」にある。

その宛先は喜多村出羽守だが、その出羽守は光秀の娘を嫁にしており、

家康は光秀の義理の息子に助けられていたことになる。

 

 

実は、秀吉も光秀も、家康も絡んでいた

伊賀者を即座に集められるだけのネットワークが、服部半蔵を中心として存在していた

という話もあるみたいですが。。

 

でもたしかに、家康と光秀にはいろいろつながりがありそうで。

 

徳川家光の乳母・春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であり

本能寺の変を起こしたいわゆる罪人の娘。

これを次期将軍の乳母に・・というのは、やはり変な気がしますし。

 

あとは、明智光秀は「天海」という江戸幕府初期の参謀のような役割を果たした層になったのでは?という説もあるみたいです。

 

年齢が合わないのではという話もあるようですが

天海はかなり長寿だったとされており、100歳を超えて生きていた可能性もあるので

絶対にない話ではないような・・

 

また、日光東照宮あたりに、明智家の家紋がある、という話も聞いたことがあります。

 

 

もし明智と家康が結託して起こしたことだとしたら

秀吉はそれを知らなかったんでしょうね(^_^;)

もし知ってたら、家康をその罪で追い詰めたでしょうし。

それとも、追い詰めると自分の非も攻められるからと・・

 

つまり、実は

 

秀吉 ⇔ 光秀 ⇔ 家康

 

という、光秀を挟んで

実は、秀吉も家康もからんでいた説

 

というのもありえるような気がします(^_^;)

 

 

本能寺の変を前にした信長の行動っていうのは

やっぱり恨みを買いまくってたと思うんですよね。。

家臣たちは恨みではないものの、恐怖して静かに眠ることもできないぐらいだったのかも・・

 

それから逃れるには、この人を殺すしかない

戦国の世なら、そう考えても不思議はないですよね。

現代だったらありえませんけど(笑)

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