BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「偉人たちのカルテ」
2017年10月9日放送 #130
の内容まとめ・書き起こしです。
毒殺が疑われる歴史上の人物、果たして本当に殺されたのか?
健康オタクだったのに死んでしまった武将の死因とは??
田辺誠一さんがナビゲーターの番組です
源頼朝の死因とは?
源頼朝は平家政権を倒し、鎌倉幕府を開いた初代将軍です。
頼朝の死の様子は・・
建久9年の冬、武蔵の国で行われた橋の開通式の帰り
落馬してしまう
ひどくショックを受けたそうだが、たいしたケガはなし
落馬してから2週間後、ひどい頭痛と吐き気を訴え
そしてなくなってしまう
53歳
亡くなる前日まで元気だったので、不審がられた
↓
鎌倉幕府の将軍っていうのは次々死んでいるようなイメージがあります。
「源家」の人間で将軍になったのはおそらく数人しかいないので
「殺された」ようなイメージがたしかにつきそうですよね。
頼朝の死については3つの説があるようですが・・
1.亡霊説
南北朝時代に書かれた歴史書「保暦間記」
「安徳天皇らの亡霊をみて気を失い病に倒れた」
当時は亡霊や祟りが強く信じられていた
→信憑性なし
2.毒殺説
鎌倉幕府編纂の歴史書「吾妻鏡」
頼朝の死から3年間の記述がなく、頼朝の死を隠したい何者かの隠蔽工作では?と言われている
首謀者は北条氏では
ヒ素が使われた
ヒ素は中毒になると消化器系の症状が出る可能性はあるが
まだ鎌倉幕府が安定していない時期に頼朝を殺すことに北条氏はメリットがないとかんがえられる
→可能性がゼロではないと思われますが・・
3.糖尿病説
五摂家の1つ近衛家の日記「猪熊関白記」
頼朝卿 飲水の重病により
という記述があり、重い飲水病を患っていたことがわかっている
飲水病とは今で言う糖尿病
大量に水をのみたがるため、飲水病と名付けられた
突然体調不良を訴えているので、可能性は低い
→糖尿病であったであろうとは思われるが、それが原因で死んだとは断定しづらい
突然症状が出て死んでいるため、死の原因は別にありそう
↓
そこで、現代医学から検証するとおそらく
やはり落馬に原因があると思われる
「慢性硬膜下血腫」ではないか
コブができるかできないかという軽い頭部打撲のあとに起こる病気で
頭部打撲のあと2〜3週間後に症状が出て来る
頼朝の症状にぴったりとあてはまる
頭を打った際から徐々に血がたまっていき
場合によっては牛乳瓶1本分ぐらいになる可能性がある
兆候は?
頭痛、歩行困難、手のしびれ、認知症
血腫が大きくなると、脳幹を圧迫して死に至る場合がある
現代であれば手術は可能
↓
ということで、やっぱり落馬が原因だったのではないかとのことでした。
まあそれを利用して、毒殺されている可能性も、頼朝の場合は否定できなさそうなんですが・・
「頭を打った」場合、その時は大丈夫でも、あとからこういうことになる可能性があるというのは現代人も知っておいた方が良さそうです。
早めにちゃんと病院で調べてもらった方が良いでしょう。
足利義満の死因とは?
室町幕府3代将軍です。
室町幕府の黄金期を築いた将軍。金閣寺を築いたひと。
側室10人以上、こどもは20人以上いた人で身体は丈夫そうですが・・
応永15年義満は51歳で死去しています。
義満も毒殺を疑われたようですが・・
1.風邪説
山科教言「教言卿記」(のりとききょうき)に次の記録がある
応永15年4月27日
義満が体調不良を訴える
4月28日
ひどい頭痛を発症
侍医の坂士仏の診察を受ける
「流布の病」=風邪
4月29日
回復の兆しをみせる
5月1日
再び悪化、面会を拒否するほど
5月4日
危篤状態になる、夕方には持ち直す
5月6日
容態が急変、午後6時頃、そのまま息をひきとる
体調が悪くなったりもちなおしたりを繰り返している。
風邪だとしたら、肺炎や高熱により命を落とすことがあるが
容態がよくなったりしているので考え難いそうです。
2.毒殺説
毒殺なら、体調不良を訴えてそのまま死ぬはず。
体調不良から8日後に亡くなっている
途中で少しよくなることは考え難いそうです。
現代医学からみると、くも膜下出血の可能性が高いとのこと。
くも膜下出血は、血管に生じたコブが破裂することによって起こる
一度小さく破裂したコブが咳き込んだり力んだりすることで血圧が上がり
二度目の破裂を引き起こすことがある
突然死を引き起こす代表的な病気
初期症状は頭痛
吐き気や嘔吐、微熱
二度目の破裂では大出血をともなうことがある
一度破裂して落ち着いたコブが再度破裂したと考えられる
↓
くも膜下出血は風邪の症状と似ているので、現代人も注意する必要あるそうです。
トイレで倒れていた上杉謙信の死因とは?
食生活はストイックで、粗食
肉は一切食べなかったとか。
家臣たちに生活規範を示した
「不識庵家中日用修身巻」
食事調菜二種を過ぐるべからず
=おかずは2種以上とるな
死んだ時の状況は・・
軍議のあと、酒を飲んでいた謙信
厠へ立った謙信が戻ってこず、家臣が様子をみにいくと
謙信が厠の中で倒れていた
その4日後に死ぬ
(天正6年)
1.虫気説
上杉景勝が家臣にあてた手紙では
「不慮の虫気」と書かれている
虫気とは腹に入った寄生虫によって腹痛を起こす病
謙信は寄生虫で死んだと考えられていた
寄生虫は最終的には排泄物とともに体外に出るため
よほどのことがないと寄生虫で命を落とすことはないと思われる
2.梅毒説
梅毒トレポネーマという細菌によって発生する病気
戦国時代に流行
主に性交渉で感染する
謙信は30歳のとき、足に腫れ物ができ、それが悪化
6年後には歩行障害が起こっていた
これが梅毒の原因ではと言われている
梅毒第4期の症状にあるが、第4期は認知症等も伴うため
梅毒ではないと思われる
3.脳卒中説
上杉家の公式記録「謙信公御年譜」
中風=脳卒中に見舞われていたという記述あり
脳血管疾患の総称
脳内出血、くも膜下出血、脳梗塞も含まれる
戦場でもたびたび脳卒中の症状に見舞われていた
41歳のときにも脳卒中の発作を起こしていた
その後、手に軽い麻痺が残ったとされる
その原因は、酒
大の酒好きで、梅干しや味噌など塩分の高いものをつまみに酒をあおっていた
高血圧を発症していたと考えられる
寒さで高血圧が悪化し動脈硬化が進行していたと思われる
寒さによって血管が収縮、酒をあおって高血圧に
倒れてから数日後に亡くなったという状況から、脳梗塞の可能性が高い
↓
上杉謙信は「短気をなおして健気に生きたい」と言っていたそうなので
血の気が多そうで(笑)高血圧っぽいですよね。
いや、塩分の取りすぎで、そういうふうになってしまっていたのかもしれません。
健康オタク・伊達政宗の死因とは
幼い頃に重度の天然痘で右目の視力を失った政宗ですが
この時代の人にしては長生きでした。
徳川家光が将軍の時代まで生き延び、「戦国の生き証人」として将軍に昔のことを語って聞かせるような役目を果たしていたと聞きます。
寛永13年 70歳で亡くなった
亡くなる際
少年の頃から度々死地を逃れてきたが今のように畳の上で死ねるとは思わなかった
と言ったそうです。
まあ戦場での窮地もありましたし、秀吉に首をはねられそうになった事件もありましたからね・・(小田原城・北条攻めに遅れていってしまった)
健康オタクだった政宗の健康法
1.運動
剣術、馬術、川狩り(魚とり)
2.清潔好き
運動後には必ず身体を拭き、家臣にも行水を奨励
ごまや大豆などの食品を好んで食べ、塩分等にも気をつけた食生活を送っていた
料理も自らすることがあったぐらい、食事には気をつけていた
水をたくさん飲み
昼寝もする(座って寝るのは血流が滞ってよくないからと必ず布団で横になって寝る)
独眼竜推脈
推脈といって、みずから脈をとり、血圧等を調べていた
日光東照宮で倒れるが、病をおして江戸にむかい徳川家光に会う
政宗の死の原因として推測されるのは「喫煙」
南蛮貿易の際、「万能薬」として広まっていた
政宗は1日3回、必ず吸っていた
酒も飲んでいたため、酒+たばこにより
食道がんや胃がんの発症が高まっていた
死の1年前からみぞおちに痛みがあったり食中に吐き気があったり
腹部の膨張によって胸の下が117cmも腫れ上がっていたとされる
よって、死因は「胃がん」
↓
「万能薬」として信じていた政宗は喫煙を日課にしていたそうなので
今で言うヘビースモーカーだったのかなと。
喫煙している人は肺がんや胃がんのリスクが高まるそうなので。。
あくまで残っている史料からの想像なので
もしかしたら違っているかもしれませんが・・・
やはり歴史上の偉人たちも、現代の一般人と同じような病気で亡くなったのか
と思うとちょっとはかなくなりますよね。
人間一皮むけばみんな骨
とはよく言ったものです。
ちなみに、番組紹介では「関ヶ原で西軍を裏切り東軍についた小早川秀秋の死因」についても放送されるとありましたが
なぜか小早川秀秋はなく、代わりに伊達政宗になっていました。
あまりにも小早川秀秋の死が不可解だったためか
はたまた別の機会に秀秋だけ取り上げられるのかは・・楽しみにしておきましょう!