ひなぴし ドラマ考察

会いたくて、会いたくてふるえるシンドローム。トケルのブログ。

豊臣秀次は将棋の名人だった(by黒田官兵衛) #真田丸

NHK大河ドラマ「真田丸」では

いよいよ次の日曜日で・・豊臣秀次さんは最期をむかえそうな予感ですね・・

 

先日もこういうのを書いたんですが。

 

naita.hatenablog.com

 

f:id:AR30:20160713144645p:plain

 

なんていうか、真田丸登場当初は「バカっぽい明るいキャラ」だったことが

よりいっそう、最期を悲しく思わせるなぁという気がしますね。

 

豊臣秀次さんのことをそれほど悪く描いていない大河ドラマは

今回が初めてではないかと思うんですが、どうなんでしょう??

 

最近の研究だと、実は自分の領土では名君として慕われていたとか

そういう話も出てきていて「殺生関白」は創作であるという可能性を指摘しているものが多いようです。

 

 

豊臣秀次さんを調べてみて知ったのですが

この方、とても将棋が強かったそうです。

 

「将棋が強い」と聞くだけで

「こりゃバカではないな」とぼくは思うんですけど、どうでしょうね(^_^;)

 

将棋の強い人は世の中にたくさんいますから

まぐれ勝ちはそうは続きません。

 

 

ただ、「関白」という位にまでなった人なので

周りが勝たせてあげてたんでしょ?という話もありそうですが・・

 

 

黒田孝高(読み方難しいですが、くろだよしたか です)という人・・この名前ではピンとこない人が多いかもですが

黒田如水・・黒田官兵衛といえば「あぁ〜〜〜」となりますよね。

V6の岡田准一さんが大河ドラマで演じていた、あのかんべえです。

 

この方、将棋がめっぽう強かったそうなのですが

その方がなんと、豊臣秀次は「将棋が強い」と言っていたそうです。

 

 

こういう逸話があるらしく。

 

 

豊臣秀吉は将棋について、駒の動かし方ぐらいしか知らない

でも名人と言われるような人と将棋をやる

相手は秀吉公に勝つわけにはいかないと、遠慮して負ける

秀吉はそんなことはお見通しだが、「勝った勝った」と喜んでみせる

 

豊臣秀次は将棋が好きでよく相手をさせられる

実力は秀次の方が上で、本気で勝負しても負けてしまう

負けてしまっても「おまえ今わざと負けただろう」と言って

もう1回勝負しろと言ってこられる

 

 

秀次の将棋の強さを言ったのと合わせて

秀吉と秀次の違いを表した内容ですね。

 

やっぱりこれをみると、秀吉は器が大きかったのかなと。

 

まあ・・そうはいっても、じゃあたとえば将棋名人が本気を出して秀吉を打ち負かしたら、それはそれで不機嫌になりそうですが(笑)晩年の秀吉ならそれだけで切捨ててしまいそうな気もします(^_^;)

 

 

ただ、秀次の感じだと・・そりゃ、相手の心をつかむのは難しいでしょうね。

 

やっぱり秀吉は人の心をつかむのがうまかった。

 

 

そして、わざと負けてくれるような相手の心遣いについても

そういう心遣いができる人間を重宝した、そういう風に取ることができます。

自分がそういうことができる人間だから、でしょうね。

 

 

まあ・・

 

やっぱり秀吉は優れた人間で、秀次はちょっと人の心をつかむのが下手な人で・・

 

ということではあるんですが

 

 

この黒田官兵衛をして「将棋が強い」と言わしめるほどの豊臣秀次という人は

本当に愚かな人ではなく、頭はキレる人だったのではないかと思います。

 

実は秀次が秀吉によって殺されたという話も

本当はそうではないんじゃないかという説が最近あるらしく・・

 

真田丸でもその説を採用するのではないかと言われています。

それはまた、別の記事で。

もし豊臣秀次が生きていたら徳川家康の天下は簡単ではなかった #真田丸

大河ドラマ「真田丸」

においても、間違いなく豊臣秀次さんは切腹させられるんでしょうね。。

 

ってあたりまえか(笑)

基本的には歴史に沿っているわけですから。

 

秀吉「検地をやったらどうなる??秀次。」

秀次「・・・・・・いろんなことが、わかります」

秀吉「もうよい!!」

 

このやり取り、面白かったです(笑)

 

 

たしかに、秀次という人が賢かったかどうかはよくわかりません。

 

もとは農民の出ですからね。

といっても、それは秀吉も同じなんですが・・

 

やっぱり長く、武士として生きてきて

信長の政策をみたりきいたりしてきた経験というのは

他の農民出の武士とは違うでしょう。

 

まあ・・検地はむしろ、農民出の秀吉だから「やった方が良い」と思ったことなのかもしれませんが。

 

 

豊臣秀次という人は、バカな人だったり、横暴でむちゃくちゃな人として描かれることが多いんですよね。

 

今までの大河ドラマとかでもたいていそんな感じだったと思います。

 

昔観ていた大河ドラマ「独眼竜正宗」では陣内孝則さんが豊臣秀次を演じていました。

まさに・・殺生関白でした(笑)

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2016年の大河ドラマ「真田丸」においては

そういう感じの印象には描かれていないですね。

 

なんというか、正直な人、そんな感じです。

 

 

そもそも「殺生関白」と言われた豊臣秀次は、本当にそういう人だったかは実は疑問があるそうです。

 

やはり強者の理論で書かれた後の書物において悪者にされただけではないかと。

 

秀次が「妊婦の腹を割いた」とか「辻斬りで千人を切った」とかいう話が実際に残っているそうですが、そんな重大事件を記した日記の類があまり存在していないそうで、「歴史書」的な書物でも本当に信用できるのかははなはだ疑問です。

 

もしかしたら、その時代に横行していた古今東西の悪行を、全て秀次がやったことにした、ということではないかという考察をされている方もいるそうです。

 

 

そして、僕も最近まで知らなかったのですが

もともと「秀吉が出世したから何の努力もせずに天下人になることができた無能な人」と言われていた秀次ですが

決してそういうことでもなかったみたいで。

 

たとえば、領国の治め方が良いと褒められている話があったり、また実際に戦場で戦功も挙げていた人だったんですね。(逆に小牧・長久手の戦い等で失敗もしているみたいですけど。失敗はどんな有力有名戦国大名でもみんなやっています)

 

だから、決して無能な人、というわけではなく

実は能力が高い人だったのではないか

というふうにもみえてきます。

 

 

まあ・・よく考えたら、あの秀吉の甥ですし、

秀吉の弟の秀長さんも有能な人だったと言われていますからね。

羽柴家はけっこう有能な家系だったのかもしれないです。

 

また、鶴松が亡くなって意気消沈している秀吉だとしても

さすがに無能な人を跡継ぎに選ぶことはないと思います。

あくまで「豊臣家の永続」を願っていたでしょうし。

 

さらに、もし無能な人なら、秀頼が生まれたあとも

その家族一族郎党全てを切腹や斬首にする必要もなかったでしょう。

誰も秀次になどついていくわけがないですから。

 

 

そうではなく、ある程度有能だったがゆえに

自分の実の子(実際には違うのではないかと言われているそうですが・・。「祈祷」というあやしい集まりによって淀君が妊娠したという説もあります。要は複数人と交わって子宝を授かるという儀式みたいなもの。複数人と交わるのは、誰の子かわからないようにするため)の今後を案じて、秀次を死においやったのではないかと。

 

この頃の秀吉はすでに常軌を逸していて、

変な被害妄想からそういう行為に走ったのではないかという気もしますけどね。

「真田丸」においても、だんだん秀吉の言動や行動がおかしくなってますよね。

 

 

でも、、、、、

 

 

歴史に IF はないんですが(笑)

 

 

もし秀次が死んでいなかったらどうなっていたか。

 

 

 

もし秀次が死んでいなかったら

関ヶ原の合戦が起こっていたかわかりませんし、

 

仮にやっぱり石田三成が我慢できずに起こったとしても、その後の世界において徳川家と双頭として並び立ち続けることができたかもしれません。

 

 

いや、なんというか

 

秀吉が死んで、秀頼が跡継ぎですよ

秀頼が成人するまでは、五大老・五奉行でうまくやっていってね

 

こういう中途半端な体制が、石田三成の不満を大きくさせ、徳川家康に戦を起こさせる隙を作ったように思えてなりません。

 

もしかしたら、秀次がトップとして政治を司っていれば、関ヶ原自体がなかったかも。

 

 

まあ・・秀吉ほどの求心力があったかは定かではないんですが。

 

有力大名の中には秀次に嫁を出している者も多数いましたし(そして秀次と一緒にころされてしまったわけですが)、実際秀次が秀吉から罰せられる直前に幽閉されている時等は見舞いに来る人が多数いたとか。

 

決して嫌われていた人ではないようです。

 

 

もし、大阪の陣のような戦いが起こったとしても

まず味方してくれる大名が少なくとも秀頼総大将(実際は淀君)という状態よりは多くいたでしょうし、

 

秀次自体は戦の経験もある武将ですから、真田信繁の「撃って出ましょう!」という進言も受け入れていたかもしれません。

 

 

大阪の陣の時の失敗は、淀君とも仲が良かった、戦の経験等ない大野治長らが実権を握っていたこと、と言われていますしね。

 

 

豊臣秀次さんはたしか28歳で亡くなっているんですが、その半生は、秀吉の命令で各地の大名の人質生活を送っていたようです。

何度も相手先の養子になっていたり。

 

そういうことから考えるに、もし実権が徳川家康に移ってしまう時代になったとしても

豊臣秀次であれば、うまくその世の中を乗り切って(家康ともうまくやって)、大阪もしくは機内(大和あたり?)の一大名として藩を持ち、

幕末まで続く藩を築くことができたかもしれません。

 

 

秀吉が豊臣家を存続させることができなかった理由として

秀次を殺してしまった

というのはかなり大きなことなのではないかと思いました。

 

 

ま、秀次は秀頼が成人するまでのつなぎ

と秀吉がしていても、やっぱり後々に跡目争いが起きていただろうなとは思いますが。。

 

豊臣秀頼もバカな人ではなかったようなので。

 

成人して淀君の言いなりにならないところまでになっていれば

そういう無駄な争いは避けることができたかもしれませんよね。

 

 

歴史ってつくづく、表面にみえていることが真実ではないんじゃないか

と思いますね。

 

現代の歴史は、後の世に正しく伝えられることを願います(笑)

強者の歴史とならないように・・

 

 

・・と言いつつ、もし日本が他国に侵略されるようなことがあれば

そういう風にされてしまう可能性はありますよね。。こわいこわい。

もし北条氏直が豊臣政権下で大名として残っていたら徳川家の天下はなかったかもしれない

 

北条氏政・氏直は、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ
小田原攻めにより滅ぼされた親子として有名です。
 
この時はすでに家督は氏直に譲られていたと言われていますが、父親は健在なわけで、実質的には氏政が実権を握っていたのかなと思われます。(ある時期から氏政は口出ししなくなったという話もあるようですが)
 
氏政さんといえば、その父・北条氏康さんが氏政の飯の食い方をみて嘆いていたという逸話があります。
 
ご飯を食べる際に湯をかけて食べるのですが、その湯を一度かけ食べ、そのあとまた湯をかけて…というのをみて、氏康さんは嘆いたとか。
 
毎日食べる飯にかける湯の量も一度で確実に定められないやつがどうしてあらゆる事柄を問題なく定められようか

 

ということらしいです😓

 

大河ドラマ・真田丸では氏政のこの「クセ」(?)を高嶋政伸さんが怪演してました(笑)そこでは、「わしはあえてこういう食い方をするのだ」というような説明でしたが…

 

 

ただ、やっぱり氏康さんの見立ては正しかったようで。

 

 

戦国大戦ver.2.0 北条034 【北条氏直】 -1582日輪本能寺より出ずる-

戦国大戦ver.2.0 北条034 【北条氏直】 -1582日輪本能寺より出ずる-

 

 

 

天下の情勢を完全に見誤ってしまったようです氏政は。
 
秀吉の現況をしっかり情報をつかんで判断できていれば、抗戦するという選択肢は取らなかったのでは、と思います。お家存続が一番大事ですからね。。

 

 

天下統一の総仕上げとしての小田原攻めだったので、全国の武将が兵を出して小田原へ攻め入り…
籠城戦の末、結局北条家は降伏することに。

 

 

この時、北条氏直は自分が腹を切るから、父・氏政やその他の者は許してほしいと秀吉に願い出たそうです。
 
しかしその願いは聞き入れてもらえず…
 
結局、父・氏政、叔父・氏照ほか家臣も斬首となりました。
 
しかし、実はこのとき、北条家のトップだった氏直は助命されているんです。
 
自分の命と引き換えに、他の者を助けてくれという心意気を秀吉が良しとしたことと、氏直の妻が徳川家康の娘であったことが影響したそうです。
 
一度は高野山へ登り謹慎生活となるのですが、翌年には赦免されています。
翌年って…早いですよね(笑)
 
しかも、1万石が与えられて一応大名として復活してるんですよね。
まあ大名といっても、有名で広大な領地を持った大名ではなく、1万石を超えてるから一応大名ですね、というレベルではあるんですが。。
 
実はこの北条氏の家は、その後の徳川の世も生き抜いて、幕末まで藩が存続したらしいです。
 
 
氏直は、ただ、赦免してもらって大名になってすぐに病死しています。
もし生きていたら…秀吉から翌年には、伯耆国一国を与えられる予定があったという話もあるみたいです。
 
真偽のほどは定かではないですが…国持ち大名に返り咲くことが許されるとは
 
どうやら、この氏直という人は、豊臣秀吉からは比較的好意的にみられていたのかな、と思われます。
赦免される際には、直接会っていたみたいですし。
 
 
…と考えると、
 
できることなら、北条家は取り潰しとはせずに、大幅に戦力は削った上で存続させてあげてれば…
 
実はそれが、豊臣家にとっても良かったのではないかと。。
 
 
小田原征伐に相当遅れてきた伊達政宗でさえも、多少の国替えはあったものの(五大老には入れませんでしたが)大大名として存続させてもらっていますし。
 
そういえば政宗も、秀吉の元へ行く時に「死ぬ覚悟で」を示すため、白装束で行くというパフォーマンスをして気に入られています。
また、さらに白装束に加え、黄金の磔柱(はりつけばしら)を抱えて、秀吉の元へ弁明にいったこともあるようです。
 
政宗の場合は完全にパフォーマンスですが
豊臣秀吉という人は人情味があるというか、
こういう人には弱いみたいですね。
 
伊達政宗は秀吉政権下で63万石、のちに謀反の疑いがかけられて減封され56万石になったそうです。(この時が黄金の磔柱)
 
 
北条氏直は、約200万石以上の石高があったようです。
(ちなみに伊達政宗も、秀吉に従う前は100万石以上ありました)
 
一応、戦わずして従った政宗が60万石程度になっているわけですから
まあ・・その半分・・か、それ以下ぐらいにはなっていたでしょうねぇ。。
 
「もらえる予定だった」と言われている伯耆国の石高は10万石程度だったそうです。
現在の鳥取県ですね。
 
 
・・と考えたら、もし最初から許されていても・・10万石程度か・・
となってしまうんですが(^_^;)
 
 
北条家が関東に残ることになれば、それに意味があったかもしれないなと思うわけで。
 
 
北条家が小田原から出て行ったあと、徳川家康が関東に入り
ここで着々と力を蓄え、江戸幕府の基礎を築くわけですよね。
 
もし北条家がそのままそこに残っていたら
現在の東京はなかったかもしれないなと思います。
 
 
また、たしかに北条家は徳川家と仲が良かったわけですが
(氏直の妻が家康の娘)
もし秀吉に許されて大名でいつづけられれば、秀吉への恩義も発生するわけで。
 
もし豊臣家をつぶす!と徳川家が動き出したときに
果たして簡単に徳川へ協力する勢力となったかどうかは・・
 
 
もしかして急に上杉と結ぶことにしたりして
関ヶ原の戦いの際に西軍側に北条がついたりしたら
 
関東へ移ってない家康は三河・駿河・遠江が所領でしょうから
東に敵として北条が存在していると
非常にやりにくかったろうと思います。
 
 
・・と考えると、実は豊臣家のためには
北条家はつぶさない方が良かったのではないかということに・・(笑)
ま、結果論ですけどね(笑)
 
 
その頃はまだど田舎だった、関東の土地は
潜在能力を秘めた土地だったんだろうと思います。
そこを手に入れ、開発を進めていったことが、家康が天下を取ることができた一つの理由でかつ江戸幕府が安定して続いた所以のような気がしますね。
 
 
まあでも・・やっぱり、家康のことなので
娘婿である氏直をうまく取り込んで、やっぱり徳川・北条連合で
豊臣家を倒しにいく・・そうなっていた可能性もありますね。
それだと・・大坂の陣はもっと早まっていたような気もします。
 
 
ということで(笑)
 
北条家が豊臣家につぶされなかったら
徳川の天下はなかったかもしれない
 
 
やっぱり、あったかもしれない(笑)

豊臣秀吉は劉備になれなかった

三国志で有名な劉備玄徳。

死ぬ間際に、諸葛亮孔明へ伝えたことを知っていますか??
 
ざっくり言うと

 

 

もし俺の子が無能だったら、
俺の子に代わって君がこの国をおさめてほしい
 
そういう内容だったと思います。

 

 

実際、劉備の息子、劉禅は相当な無能だったらしく…
劉禅の幼名・阿斗は、その後、アホ、愚か者を指す言葉になってしまうぐらいなので。。

 

 

結局、諸葛亮孔明は劉禅にとってかわることはなかったわけですが…
 
やっぱり、代わってでもこの国をなんとか守ってほしい、という主君劉備の気持ちに心を打たれたからだと思います。(まあ、諸葛亮孔明は天下を取る!というキャラではないのかもしれませんが)

 

 

日本の有名人でなんとなく劉備に近いかもな、と言える人がいるとしたら、
豊臣秀吉ですかね。
 
名もなき一兵卒から身を起こし、
人を惹きつける魅力を持って出世していく。
 
全く同じではないですが、近いものがあるのかなと。

 

 

ただその秀吉が劉備と最も違う部分で、最大の過ちを犯してしまったのが、死ぬ間際。

 

 

居並ぶ大名たちを前に
「くれぐれも、くれぐれも秀頼を頼む」
と言い残したそうな。
 
徳川家康とか前田利家なんかの五大老や石田三成なんかの五奉行たち。
 

 

徹底図解 豊臣秀吉―日本で一番出世した男の常識を破壊したその生き様

徹底図解 豊臣秀吉―日本で一番出世した男の常識を破壊したその生き様

 

 

 
この結果のちにどうなったかといえばご存知のとおり。
 
最終的には、徳川家康が豊臣家を滅亡へ追い込み、天下を取った、と。
 
 
こういう風になってしまう、ということは秀吉の頭の中にはなかったんですかね…??
 
いや、元気な時の秀吉ならここまで考えが及んで…とできたかもしれませんが。。
 
晩年の秀吉は無理な朝鮮出兵を行ったりと、あまり現実的でない行動が目につく気がしますし。
 
最後にはやっぱり判断能力が鈍っていたんですかね。
 
 
この国を平和に保つ!
 
なんてたいそうなことを考えていなくても、自分が一代で築いた豊臣家をこのあとも存続させるにはどうすれば…
 
秀頼はまだ小さい…
 
 
というところから考えれば、本来は自ずと答えがみえてきたと思うんですが。。
 
秀吉がいくら農民の出だからといっても
こんな幼い秀頼が求心力をもって居並ぶ大大名たちを指揮できるとは…過去の歴史からも無理とわかりそうなものですし。
 
豊臣家の存続と、
豊臣家がトップで居続けることは違います。
 
最期の最後で秀吉は、
豊臣家がトップで居続けることにこだわってしまったんですね…。
 
 
よく考えたら、家康の方がさらに歳を取ってから天下を取ってますから、
秀吉同様に体制が整わないままに自分が逝ってしまうということもありえたわけですが…
 
まあ、家康が頑張って、早急に体制作りに務めたということ(天下を取る前から準備してたのかもしれませんが。もしくは徳川家の体制がもともと洗練されたものだったか)
 
 
もうひとつそうかーと思ったのは、跡継ぎの年齢ですよね。
秀忠は秀頼ほど若くはなかったわけですから。
 
徳川秀忠はそんなに功績があった人ではないと言われてますけど、家康のあとをついで創業社長のあとで徳川江戸幕府を存続させることができたというのは、やはりそれなりの人物だったのだろうと思います。
 
 
では、豊臣秀吉は何と言い残してこの世を去れば良かったんでしょう??
 
 
家康殿、秀頼はまだ若い。全てはあなたに任せる。あなたが私に成り代わり、天下をおさめてくれ。

 

 

もし、秀吉が劉備と同じように、
 
いや、劉備のように、おまえが代わってくれ!とまで言わないまでも、あなたがこれからあとのことは中心となってやってくれ
と言っていれば。

 

 

…たぶん、その言葉どおり、
やっぱり家康が実権を握り、結局は徳川幕府が開かれ将軍になったかもしれません。
 
が、しかし、
その時に、豊臣家はきっと残っているでしょう。
何らかの術中策謀により仮に、あの堅固な大阪城から追い出されることになろうとも。
 
家康が権力を得たのは秀吉のお墨付きがあったから、とみんなが思っている中、
討ち果たすことはできないと思われます。
 
きっと、大和の国あたりに、
加賀百万石以上ぐらいの石高をもらって存続できていたのではないかと。

 

秀頼の方も、父親がよろしく頼むと言った相手に真っ向から反抗することはないと思います。
反抗しなければ、お家断絶へ追い込まれる理由がない。
 
…ということで、
もし秀吉が劉備になることができていたら、
豊臣家は違う運命をたどることができたんじゃないかという話でした。
 
 
ただ、劉備の死後、蜀の国は結局、
魏に滅ぼされてしまうんですけどね。。
 
結局、諸葛亮がいなくなったらもはや、
蜀を支えられるだけの人材がいなくなってしまい。。
 
劉備・蜀の方の間違いがあるとしたら、
諸葛亮が本当に、劉禅を押し退けて自分が皇帝にならなかったことですかね…
 
 
でも、劉備の子の劉禅は、生き延びたんですよねえ…魏でも、そのあとの王朝、晋でも。
 
たぶん、たいして害のない、反抗心がなく、恐れられるような人でもなかったからなんでしょうね、生かしてもらえたのは。
 
そう考えると、
 
豊臣秀頼、という人は、
徳川家康から相当警戒された、有能な人だったのかなーという気がしますね。
 

大河ドラマ真田丸で抜け作と言われた片桐且元と茨木城主もなかの話

大河ドラマ・真田丸、毎週みています。

真田信繁が上杉景勝に付き添い豊臣秀吉の元へいってから

ちょこちょこと登場している武将

 

片桐且元

 

賤ヶ岳七本槍の1人です。

 

同じく、賤ヶ岳七本槍の1人である平野長泰からドラマ内で

「抜け作」と言われていたこの人がちょっと気になったので調べてみました。

 

片桐且元関連の書籍はこちら

片桐且元: 豊臣家の命運を背負った武将

片桐且元: 豊臣家の命運を背負った武将

 
片桐且元 (小学館文庫)

片桐且元 (小学館文庫)

 
片桐且元 (人物叢書)

片桐且元 (人物叢書)

 
戦国大戦 豊臣010 UC片桐且元

戦国大戦 豊臣010 UC片桐且元

 

 

 

大阪府茨木市のお土産に、昔

片桐もなか

という和菓子がありました。

 

ぼくはもなかの味の違いはわかりませんが(笑)

美味しいものだったようですよ。

片桐もなかは昔から知ってましたが、ぼくはこどもの頃に食べた記憶しかないので

こどもの舌ではもなかの味の良さは・・(笑)

 

 

なぜ茨木市のお土産として片桐もなかがあったかというと

片桐且元が茨木城主だった時代があったから、だと思います。

 

その前には茨木氏という人だったり、そこそこ有名な中川清秀が茨木城主だったりしたそうですが・・

片桐且元が最後の城主だったんですかね。

 

その後、茨木城は一国一城令で廃城になってしまったそうです。

(隣市である高槻市にあった高槻城が残されて)

 

 

その片桐もなかって今どうなっているんだろうと調べてみたら

なんと今はなくなってしまっているとか。

 

なぜなくなってしまったかというと

WEB上で調べたところによると、片桐最中を作っていた和菓子店に跡取りがおらず廃業したからだとか。

 

なんか・・さみしい話ですね。

 

 

・・といってたら、なんと(笑)

 

茨木城主もなか

 

よみがえる茨木城

よみがえる茨木城

 

 

というのが存在しているらしいという情報が(笑)

  

 

こちらも調べてみると・・

実は先の和菓子店で餡の製造に携わっていた職人さんが独立して作ったものだそうです。

 

こちらの「ちとせ」というお店で売っているようです。

i-chitose.com

 

ほほぅ・・

 

「ちとせのこだわり」ページをこの記事公開時点でみると

 

ちとせの「こだわり」ちとせの「こだわり」ちとせの「こだわり」ちとせの「こだわり」ちとせの「こだわり」

 

(笑)

 

えっと・・製作中に我慢できずに公開してしまったパターンでしょうか・・(^_^;)

誰か、茨木の新たな銘菓を、なんとかしてあげてくださいっっっ(^_^;)

 

 

片桐且元という人は

羽柴秀吉の元で賤ヶ岳七本槍になったということ以外には

あまり目立った功績がない人ではあるんですが

 

一応、秀吉死後も豊臣家のために尽くそうとし

家が存続するために頑張ったみたいですよ。

 

豊臣家の重臣でありながらある時期から徳川家康とも親交があったようで

その縁でなんとか秀頼・淀君の助命を・・と申し出ていたらしいです。

 

が、その行動が豊臣方からは「寝返ったやつ」ととらえられてしまったらしく。

最終的には豊臣家を去ることになり、家康の元へくだったとか。

 

まあこういう行動だと、後世には結局良い風には伝えられないですよね。

最後まで豊臣家に従った真田幸村!みたいなのを好みますしね、日本人は。

 

家康の元でも所領を与えられ、藩を開くわけですが

且元のあと4代ほど続いた片桐家は、最終的にお家断絶となってしまいました。

(一部の子孫は続いていますが)

 

 

あれ??

この断絶ってどこかでもみたような・・

 

そう、片桐もなかの結末となんかかぶるところがないですか??

跡取りがいなくて廃業・・

 

え?もしかして、片桐もなかさんはそれを狙ったのか・・??いやそんなことはないですよねきっと。

 

なんだか不思議な感じですね。

 

 

高槻城が残され、茨木城は廃城になる。

高齢化が進んでいると言われる茨木市がいずれ隣市である高槻市に併合されてしまう

という未来を暗示していなければいいんですが・・・

 

とちょっと思った話でした。

 

 

真田丸での片桐且元はどのように描かれるんですかね??

お人好しとして最後までいくのか

どっちつかずの優柔不断なやつとしていくのか・・

 

どちらかというと、後者のイメージで語られることが多いように思いますね。片桐且元は。

 

 

茨木では銘菓の名前になるぐらいですから

もしかしたら内政には力を発揮した人だったんでしょうか。。

 

豊臣家の重臣で、秀頼の後見役になっているぐらいですから

秀吉からのおぼえもめでたい人だったのかなとは思います。

ということは、少なくとも無能な人ではなかったのかなと。。

 

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姓と名の間に「の」が入る場合とそうでない場合の違い、真田丸では「とよとみのひでよし」

源頼朝  みなもとのよりとも

平清盛  たいらのきよもり

藤原道長 ふじわらのみちなが

 

みんな、姓と名の間に「の」が入ってますよね。

 

でも、

 

織田信長 おだのぶなが

徳川家康 とくがわいえやす

北条政子 ほうじょうまさこ

 

などなど。

 

「の」は入ってませんよね。

 

 

「おだのぶなが」入ってんじゃん!っていうツッコミは無しで(笑)

その「の」はこの「の」じゃないですからーーー!!(笑)

 

おだ ぶなが

 

さんではないので(笑)

 

 

現代人の名前でも基本的には「の」は入ってないと思います。

 

では、どういう場合に「の」が入るか??

 

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ごくごく簡単にいうと

 

「源」とか「平」「藤原」というのは

天皇から与えられた「氏(うじ)」と呼ばれる公式なものだそうです。

 

それとは違うものとして存在しているのが「苗字」で、

これは現代人もたぶんそうだと思うのですが

自分の支配していた領地や地名からとってできたものだそうです。

 

「氏」と「苗字」は別物ってことなんですね。

 

なぜ苗字ができたかというと、これは諸説ありかもしれませんが

ある時期になると「氏」で呼ぶと区別がつかなくなってきたからとか。

平安時代〜鎌倉時代ぐらいって

「源」「平」「藤原」とか、しぬほど数が増えすぎて(笑)

もはや区別するのが難しくなってきて、たぶん通称的な感じで苗字が使われ始めたのかなと。

 

ちなみに「姓(かばね)」というのも存在していて

詳しくは割愛しますが、これは「氏」の身分を定めるためにつけられたものだそうです。

真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)

等がこれにあたるとか。

 

中臣連鎌足(なかとみ の むらじ かまたり)

 

みたいなのがこれで、「連(むらじ)」が姓です。

 

こういう氏姓制度はのちに使われなくなってきて

かわりに冠位が用いられるようになったとか。

 

正一位とか従三位権中納言とか・・ですかね。

 

 

話がそれましたが

 

この「氏」を名乗る場合は

氏と名の間に「の」が入るそうです。

 

そうでない、苗字+名の場合は「の」が入らない・・と。

 

 

たとえば、

徳川家康 とくがわいえやす

は「の」が入らないんですけど、

 

正式な文書では「源朝臣家康(みなもとのあそんいえやす)」を名乗っていたそうです。

 

「朝臣(あそん)」は姓ですよね、上でいう。

徳川氏は源氏の流れをくむ・・と言ってたんですよね(本当かどうかは・・(笑))

 

 

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」に登場する

羽柴秀吉さんは

天皇から「豊臣」の名前をもらうわけですが

 

天皇からもらった「氏」の場合は当然、氏と名の間に「の」が入ります。

 

・・ので、

真田丸では「とよとみのひでよし」と名乗っているそうです。

 

 

ただ、戦国時代ぐらいになると

「氏」での呼び方が相当薄れてきてしまっていたと考えられるため

実際に豊臣秀吉が「とよとみのひでよし」と名乗っていたかは不明です(笑)

 

実際、今の教科書等で「とよとみのひでよし」と書いているところは無いですしね。

 

 

明治時代以降は「氏」というのがなくなったそうで。

四民平等で、苗字にも差がなくなり、一般人もみんな苗字を名乗るようになったので。

 

だから今、「平(たいら)」という苗字の人がいても、

「たいらの◯◯」という名前にはたぶんなってないと思います。

 

また、ドラえもんのしずかちゃんだって

フルネームは「源静香」だと思いますが(あれ?こんな漢字なの!?)

みなもとのしずか

さんではないと思います(笑)

徳川家康は豊臣秀頼を滅ぼそうと決めていたわけではない

豊臣氏を大阪夏の陣で大坂城もろとも滅亡させて

江戸幕府を盤石のものにした徳川家康。

 

関ヶ原の合戦があり、その後に「大坂の陣」と

豊臣秀吉死後に着々と進めていったイメージがありますが・・

 

実は家康は最初から秀頼を亡き者にしようと思っていたかは疑問だ

という説があるのを知りました。

 

 

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よく考えてみたらそのとおりなんですが

 

関ヶ原の戦いが1600年(家康59歳)

江戸幕府を開いたのが1603年(家康62歳)

 

大坂冬の陣が1614年(家康73歳)

 

戦国時代から江戸時代初期ぐらいの有名な人だと、だいたい平均して60歳くらいまで生きている人が多いとか。

 

そうすると、関ヶ原の戦いの時点ですでに家康は寿命の年齢を迎えています。

健康には気をつけているとはいえ、いつしんでもおかしくはない。。

 

もし本当に

「豊臣だけは絶対に、俺が生きている間になんとかしないと」

とはじめから思っていたのであれば、きっともっと急いだだろう、という話。

 

73歳って、たぶんその当時の人からしたら

「いつしんでもおかしくない」レベルの人だと思うんですよ(笑)

まあ・・戦いに出られるほどなので健康ではあったんでしょうが。

 

 

ただ、そうはいってもやっぱりそこまで待つ必要があった、という人もいて。

まあこっちの方が主流派の考え方だと思うんですけど。

 

1605年に徳川秀忠へ将軍職を譲って、今後は将軍職を世襲していくと示し

またそこから1610年頃までの間に豊臣恩顧の有力大名たちが次々亡くなっているので

それを待っていたとか。

 

それももっともな感じはするんですけどね。

もし本当に待っていたとしたら、相当自分の健康・元気に自信があったということですよね(笑)

 

自分より若い武将や同い年ぐらいの大名がしんでいくのを待つわけですし。

 

 

秀頼が大阪を出て大和郡山(奈良県大和郡山市)への移封を家康は要求していたそうです。

そして淀君が家康の元へ人質として送られ・・

 

というのをもし豊臣秀頼が受け入れていれば、

そのまま大和郡山藩として江戸時代も存続して幕末まで残ったかもしれません。

 

そしたら、もしかしたら今も「豊臣家」「羽柴家」?が残っていて

子孫がそれなりの人だったら大阪市長ぐらいにはなっているのでは・・という話もありました(笑)

 

 

こういう家康の要求をみても、力は大幅に削いで、かつ難攻不落といわれた大坂城をぶっ壊しさえすれば、豊臣秀頼を生かしておくという選択肢はあったのかもしれないなと。

 

そういう可能性も考えての、関ヶ原からの14年だったのかなと。

 

 

ただ、、豊臣秀頼や淀君については

大坂の陣という最大級の戦いで名前が後世に残った人なので

もし家康に降っていたら、きっとたいした知名度ではなかったんでしょうね(^_^;)

有名な武将でも、その息子は、生きていてもあんまり有名じゃない人けっこういますしね。

 

織田信長の子、伊達政宗の子・・そんなに有名じゃないし(笑)

 

 

リアル・プリンセストヨトミ(笑)

いや、もし豊臣家が存続してたら、隠れる必要はないですもんね。

 

奈良へ移ったとしても、

大阪の人は「太閤さん」好きで、豊臣家を持ち上げたんじゃないでしょうか(笑)

聖徳太子が天皇になれなかった理由とは?

聖徳太子自体が・・ちょっとあやしい存在というか、実は存在していないんじゃないかという話もあるみたいですが。。

 

最近だと、「厩戸皇子」という紹介が多いんですかね。

 

 

聖徳太子っていろんなことをやった人、というイメージはありますが

そういえばすごく有能だったようなのに、なぜ天皇にならなかったのか。

なれなかったのか。

 

言われてみると・・たしかに。

 

理由は?と聞かれると・・なんだろう??と(笑)

 

 

いろいろ説はあるようなんですけどね。

でも一番納得できた説。

 

推古天皇が長生きしすぎた

 

長生きして何が悪いんじゃい(笑)と言われそうですが・・

要は、推古天皇が生きていたから、聖徳太子が即位できる隙がなかったと。

 

といっても、推古天皇が邪魔をしたとかそういう話ではなく。

 

 

日本史を勉強していると、天皇が次の人に天皇の座を譲る譲位というのがよくありますよね。

 

そして元天皇は上皇と呼ばれたりする。

 

でも、たとえば現代の天皇でそれはありますか??

答えはノー。

 

今は天皇というのは生きている間ずっと続けるものとなっています。

だから現代には「上皇」とか「法皇」みたいな人はいないわけです。

 

 

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そして、この聖徳太子・推古天皇の時代も今と同じみたいで。

 

天皇が生きている間に、別の人へ天皇を譲る、というのは「無い」ことだったそうです。

 

推古天皇は36年間、天皇の座にいたようで、亡くなったのが75歳。

ということは・・天皇になったのが・・39歳??

554年生まれ、628年没

天皇だったのが592年〜628年

 

聖徳太子は

574年生まれ、622年没

 

推古天皇が即位したあと、聖徳太子は皇太子になったそうですが・・

その後、結局、聖徳太子よりも推古天皇の方が長生きした、ということで・・

天皇になることはなかったようです。

 

 

ちなみに、この聖徳太子の時代のすぐあとに

初めての、天皇「生前譲位」があったそうです。

 

推古天皇の二代後の皇極天皇が孝徳天皇へ譲位したのが初めてだったとか。

 

 

皇極天皇も自分の意思で「譲位したくてした」というものではなかったようなので

そりゃ前例がない上に「必要性がない」となれば、聖徳太子は天皇にはなれませんよね(笑)

 

聖徳太子は亡くなったとき48歳?だと思いますが

この当時の平均寿命からすると、クリアしているそうです(笑)

 

ということは・・推古天皇が相当長生きだったと(笑)

 

 

天皇になれたら良かった・・のかはわかりませんけど(笑)

運が・・悪かったんですかねぇ・・聖徳太子ことうまやどの皇子さん。

 

 

ちなみに、現代日本では

天皇は生前譲位はできないことになっていると思います。

 

ただし、「摂政」はおくことができるそうですよ。

たぶん、天皇が通常の執務ができなくなった時に代理で行う人で、きっと皇太子がやることになるんだと思いますが・・

 

 

昔、日本は天皇の生前譲位ができるようにしようとしたという話があるようですが

GHQからノーという話があったとか。

 

それは

 

上皇となった元天皇が政治家になって総理大臣になること懸念したからだとか。

 

おぉぉ・・なるほど。

 

 

それって・・ありなんですかね(^_^;)

ただ、まあそう言われるとわからない気もしないではないですね。

 

 

なんとなくご高齢の天皇は大変そう・・という気持ちもありますが。。

それが天皇というもの、ということなんですかね。。

徳川秀忠が真田討伐で関ヶ原に間に合わなかったのは作戦通りだったという説【真田丸】

大河ドラマ・真田丸でのクライマックスのひとつ、関ヶ原の戦い。

 
クライマックスといっても、真田昌幸・信繁親子は正確にいうと関ヶ原の戦いには参加してないんですよね。

 

 

居城・上田城から出ず、籠城した状態でした。

 

そこへ攻めてきたのが徳川秀忠。

 

徳川家康が東海道を進み西へ、秀忠は中山道を通っていくということで。

 

この時、徳川軍の主力はほとんど秀忠と行動を共にしていたそうです。

 

軍勢の数だけで言うと家康本隊が3万数千人、秀忠隊が3万8千人ほどだったとか。
家康の家臣の大名クラスはほとんど秀忠隊に加わっていたらしいので、徳川軍としてまともに戦えるのは秀忠隊だったはず…とのことです。

 

 

それが、秀忠隊は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

 

なぜ間に合わなかったかというと、それは真田昌幸・真田信繁親子が守る上田城の攻略に時間がかかり足止めをくらったため。

 

第二次上田合戦です。
 
これは…真田丸ではクライマックスのひとつですよね〜。
真田昌幸としては、最大の見せ場かなと思います。
このあと、紀州九度山へ配流されてしまいますからね。。

 

 

この第二次上田合戦、よく言われるのは、
立ち寄らなくてもよい上田城に秀忠がわざわざ立ち寄り、真田を踏み潰して進もうとしたらそれどころか痛い目に遭わされて、結果大事な戦いに遅れてしまうという大失態…。
 
実際、関ヶ原の戦いは結局
東軍が勝つ原動力となったのが徳川軍ではなく、東軍についた豊臣恩顧の武将たちの活躍によるものだったことで、
関ヶ原後の恩賞において、
とくに西国については徳川の武将は誰も配置できず、豊臣恩顧の武将たちが高い石高を与えられたという。。
 
それを思うと、本当なら秀忠隊が来ていて徳川軍によって関ヶ原の戦いの決着がついていたら、関ヶ原後はもっと早く徳川中心の時代になっていたかもしれませんよね。
実際にはそれから15年近くもかかってますし、豊臣を滅ぼすまでには。
 
一部の説では、この時に西国に外様大名がたくさん石高多く配置されたことが、明治維新にまで影響したのではないか、という話まであるみたいです。
そう考えたら…すごいことですよね😓
やっぱり、徳川のためには徳川軍がやりきるべきだったんだろうなと。
まあ、数百年先のことまでは予測できなかったと思いますけどね。
 

 

 

 

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でも最近、じつはこの「秀忠隊が遅れた」というのは作戦通りだったのではないか、という話もあるみたいです。
 
もじつはそうでなかったら、大失態をしてしまった秀忠が二代将軍になどなるわけないと。

 

まあたしかに。。

 

要は、徳川軍の温存が目的だったのではないか、という話です。
関ヶ原の戦いは外様大名たちにうまくやらせて、自分たちは疲弊しないで勝利を得る、という家康の作戦ではないかと。
 
また、もしかしたら、関ヶ原の戦いで自分に何かあった時のためのバックアップとして別動隊をゆっくり動かしたとか。
 
なるほど。。
それも言われてみればたしかにという気がしてきますね。。

 

 

でも、上田城を攻めているというのがひっかかりますよね。
 
第一次上田合戦で家康自身が命じた戦いで落とせなかった上田城。真田昌幸。
それを倒しに行ってるのに、また倒せないで…というのは、とてもカッコ悪い(笑)
 
まあ、もし家康がそういうカッコ悪さを気にしない人だとすれば可能性はありそうですが…
気にするでしょう〜〜普通、戦国武将なら(笑)
 
 
ただ、実際、上田城にこもった真田氏はものすごく少ない人数で大軍の徳川秀忠軍を撃退できてしまってます。
 
もし本気でやってたら…
やっぱりひとたまりもなかった気も…

 

 

どうなんでしょうね。。
 
だいたい城を落とすには3倍以上の勢力で、と言われていたように記憶してるんですが、
この時はたしか10倍近かったような(笑)

 

 

どうなんでしょうね、本当のところは。

 

 

もうひとつあるとしたら、
 
秀忠自身があまり早く行きたくなかったとか関ヶ原に(笑)
単に戦いたくない、とかいう話ではなく、
秀忠はもともと、豊臣との共存の可能性もありえる、とかんがえていたフシがあるそうなので
対石田三成という戦いであるとはいえ、
やっぱり対豊臣的な戦いにはあまり積極的ではなかったとか。。
娘が嫁いでますからね、豊臣秀頼に。
 
…とはいいつつ、
こういう考えは、家康には絶対に許されない気もします(笑)
 
でも、上田城を攻めてて遅れた…なら、言い訳もできたんですかねもしかしたら。。
家康も落とせなかったわけですし。
(第一次上田合戦は、家康家臣が攻めた話だったと思いますが)
 
 
まあ、やっぱり、
秀忠隊をわざと遅らせて、
三成と家康の戦いの場では、豊臣恩顧の大名同士での潰し合いをしてくれれば…
そういう意図だったんですかね。
 
不利な戦況になれば負け戦となってもいいから兵を引く。
 
でも自分たち徳川軍の主力は温存してるから、潰し合いをした三成方の大名とその後に戦うことになろうともなんとかなると。
 
要は、勝てなくても、潰し合いをしてくれればそれで良し、というような気持ちもあったのか。
 
…て考えたら、やっぱり作戦通りだったんですかね、秀忠の遅刻(笑)
 
秀忠、勝手に攻めませんよね〜〜上田城(笑)
 
 
真田氏に感情移入して真田丸を観ている立場としては、
徳川軍の主力が本気で攻めたけど、上田城は落とせなかった、そう思いたいですけどね!

真田幸村が豊臣秀頼に、徳川家康へ従うよう説得できていたらどうなったのか

NHK−BSプレミアムで放送されている「英雄たちの選択」が好きです。

毎週観ているんですが・・

 

2016年1月14日に放送された「大坂の陣400年 真田幸村・決戦へのジレンマ」が面白かったです。

 

その内容でとくに面白いと思ったのが、この放送で最後にあったコーナー

「歴史のif」を考える

 

ということで、歴史学者の磯田道史氏が想像したものを発表するコーナーです。

 

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「真田幸村は大阪夏の陣の時にどういう選択をするのがベストだったか」

というところで3つの選択肢

 

1.大坂城を退去する

2.恭順策を進言

3.家康と決戦

 

これ、実際には「3」を選んだわけですが

実際にはどれが良かったのか、というのを出演している各分野の専門家が話し合っていました。

 

 

これを受けての磯田氏のコーナー。

 

 

「もし幸村が恭順策を進言して、秀頼が家康に従うことになっていればどうなっていたか」

という話です。

 

これがなんだか面白かった・・

 

★豊臣家は一大名として残ることになる(恭順するかわりに大坂の領土安堵等の条件はとりつけるとして)

★史実では1年後に家康が病死する

★すると、ふたたび豊臣家に従おうという大名が出てくる可能性がある

★当時の朝廷は家康との関係はよくなくて、秀吉の恩義を感じている

★秀頼と朝廷の関係がよくなる

★さらに、17年後には秀忠もなくなる

★徳川家は内部対立が激しくなる(三代家光とその弟の後継者争い等)

★その間に、豊臣家が朝廷から「徳川追放」の命令を引き出す可能性がある

★・・となると、もしかしたら首都が東京ではなく大阪になっていたかも・・

 

実は、徳川家康の頭にこういうシナリオがあったのではないか

だから、それを避けるために、無理やりにでも豊臣家に戦いを挑んだのではないか

ということでした。

 

なるほど。。

秀頼はまだ若かったですからね・・

 

時間を稼ぐことができれば、いろんな可能性が広がっていたことは否めませんね。

 

 

ちなみに番組内で「惜しい」とされていたのは、大坂冬の陣の時点で

幸村が主張していた「大坂城からうってでて、野戦で決着をつける」をもし実行していたら

もしかしたらそこで勝利できていたかもしれない、という話。

 

豊臣方の実力者、大野治長らに反対されて採用されなかったのですが。。

 

実際には、大坂城に籠城していたわけですが

真田丸で徳川軍に大打撃を与え、それによって家康は講和工作に走ったのではと言われていますし。。

 

 

有名な、冬の陣の講和条件で大坂城の堀を埋めるという話、

豊臣方と徳川方で協力してある程度時間をかけて埋めることになっていたとか。

 

それなら・・ゆっくり作業をやって、遅れ遅れにしているうちにきっと家康はしぬだろう

みたいな甘い予測が豊臣方にはあったのではないかというのもありました。

 

実際には、徳川方によって速攻で埋められてしまい、そしてすぐにまた夏の陣・・となってしまったわけで。

 

 

やっぱり、何事も自分の都合の良いように解釈してはいけないですね(^_^;)

 

勝利者というのは、いつも、自分の最悪の状況を想定して、そうならないためにどういうことをどういう手順でやっていけば良いかを考え、それを着実に実行していく

そういうものだ

 

という話もありました。

 

 

歴史を学ぶっていうのは、こういうことを学ぶことなんだなーとなんとなく感じましたねー

原爆投下日は広島が8月6日、長崎が8月9日。では何年のことですか?西暦・元号それぞれ。

「原爆投下日を7割の人が不正解」

 

NHKでこういう調査があったそうです。

被爆70年に合わせてNHKが行った世論調査で、広島と長崎に原爆が投下された日付について聞いたところ、正しく答えられなかった人がそれぞれ全国で7割程度に上り、専門家は原爆について意識を高めていく必要があると指摘しています。
NHKはことし6月下旬に、広島市と長崎市、それに全国の20歳以上の男女を対象に、コンピューターで無作為に発生させた番号に電話をかける「RDD」という方法で調査を行い、それぞれ1000人余りから回答を得ました。
まず、広島に原爆が投下された日付について聞いたところ、正しく答えられた人は、広島で69%、長崎で50%、全国で30%でした。
また、長崎に原爆が投下された日付について聞いたところ、正しく答えられた人は、広島で54%、長崎で59%、全国で26%でした。

www3.nhk.or.jp

 

え・・??

 

まさか、原爆が投下された日をこんなにたくさんの人が間違えるなんて。。

 

日本人ならほぼ全員の人が学校でも何回も習っていると思いますし、

毎年テレビでも必ず放送されますので・・なぜ、3割しか知らないのか。。

 

すごく不思議に思いました。。

 

 

 

ら、実はこれには仕掛けがあったようで。。

 

 

 

「何年のことか、まで正答する必要あり」

 

 

要は、日付だけでなく

何年のことだったのか

まで回答できなければ、不正解になったみたいです。

 

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では、問題です。

 

 

広島、長崎へ原爆が投下されたのは

何年の何月何日でしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こう聞かれると、わからない人も多いのではと。。

 

 

 

では回答を。

 

 

 

まず西暦でいうと

 

 

 

広島 1945年8月6日

長崎 1945年8月9日

 

 

 

 

学校では主に、西暦で教えているらしく

1945年しかわからない・・という人も多かったのではないかと。

 

 

 

では、元号にすると

 

 

広島 昭和20年8月6日

長崎 昭和20年8月9日

 

 

日本人であれば、これは

西暦でも和暦でも回答できるようにしておきたいですね。

 

ぼくも元号はすぐには出てきませんでしたので

メモもかねて。

銃で4発撃たれても生還した鈴木貫太郎さんがすごい、歴史秘話ヒストリア「二・二六事件」妻・たかが語った事件の内容

近現代史ってやっぱり知っておかないといけないなぁと

最近とくに感じるようになりました。

 

昔から日本史好きとはいえ

やっぱり派手な、武士が活躍した戦国時代〜江戸初期が好きで・・

近現代史にはなかなか興味は持てず。

 

でも、これからの日本を考える上で、同じ過ちを繰り返さないためにも

外国と戦争をしてしまった近現代史を知っておくことは

重要だなぁと感じるようになりました。

 

とはいうものの、なかなかまとまった時間を取る意欲が出ず

ふと目にしたもので少しずつ知識を補完していくような、そんな感じです。

 

まあ、一からしっかり勉強するのが理想なんですけど

そうもいかないので、テレビ等をみて興味を持ったところからでも

知ることができれば・・良いかなと。

 

今日は、先日録画しておいたNHK「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていた

鈴木貫太郎さんについて。

 

「歴史の重要性」というような話からは完全にそれた話になりますけど・・

まあそれでも、少しでも興味を持つことができるなら、ということで。

 

「もっと大事なことがあるだろう!?」というツッコミは無しでお願いしますm(__)m

それはわかってるんですけど、そんな高尚なことからやろうとしたら

そもそも学ぶ意欲自体がそがれてしまうので(笑)

 

もし・・間違えている点があれば、申し訳ありません。。

 

http://odajorighee.tumblr.com/post/125972056991/d0115409014344jpg-490-418から

 

二・二六事件で銃で撃たれてもしななかった

「二・二六事件」というのは・・ちょっと聞いたことあるぐらいの知識の人が

実は多いんじゃないでしょうか。

 

1936年(昭和11年)2月6日〜9日にかけて起こった

クーデーター未遂事件だそうです。

 

天皇親政を目指し陸軍青年将校1,500人が起こした軍事クーデーターで

政府の要人9人をさつがいした事件です。

天皇親政を標榜し日本改造を目指していたわけですが・・

これは天皇の想いとは全く違っており、結果として天皇の命令で鎮圧されてしまった

そういう事件。

 

この時に・・政治腐敗の原因の一つとなっているとみなされ

ころされることになった人の一人が、鈴木貫太郎さんです。

 

鈴木貫太郎とは

終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯

・もともと海軍出身

・聯合艦隊司令長官、海軍軍令部長を歴任

・40年に及ぶ軍人人生

・「軍人は政治に関与せざるべし」 

・61歳のとき、昭和天皇側近の侍従長へ推挙される

・侍従長は身の回りの世話だけでなく、天皇の相談相手になったり、公私ともに関わりが深い仕事

・二・二六事件当時は、侍従長を務めていて、すでに七年が経過していた

 

鈴木貫太郎が襲われた時の状況

 

鈴木さんの妻・たかさんがのちに語った内容がテープに残っていたそうです。

近所で交流のあった農家のウエハラさんの要望によって録音したものだそうです。

ちょっと書き起こしてみます。

 

十何人ぐらいいたんでしょうね。兵隊さんが入ってきて。

「閣下でありますか」って聞いてるんですよ。

「ああそうだ」って「私は鈴木だ」って。

「何事が起こってこんな騒ぎをしているのか」

「話したらいいじゃない」かって。

 

誰も返事をしないんですよね。

 

私のところは、兵隊が入ってくると2人で剣付き鉄砲でね。

座っているんですからね。

どうすることも動くこともできないけど

そのうちに軍曹がきてね

 

「 ヒマがありませんから、撃ちます。」

「じゃあうて」

パンパンパンパンと撃つと、そこに倒れてしまいましたからね。

眉間に1つあたって、1つは肩へあたって

1つは心臓の右の方へあたって

1つは横腹へあたって

眉間からも、胸の所からも

血がドロドロドロドロ出てくるんです

 

兵隊さんたちの方はね

「とどめ、とどめ」って大きな声で言ってたんですよ

私はこうやってみていると、まだ主人は息をしていますからね

別れでもね

一言生きている間に別れを言いたいと思って

「とどめだけはどうか待ってください」

安藤大尉がそれを聞いてね

「とどめは残酷だからよせ」

「みんな閣下に対して敬礼しろ」

パタパタと座ってね 敬礼していきましたがね

安藤さんが私のそばに来てね

「奥さんですか」っていうから「そうです」

「何事が起こってこんなことになりましたか」

って私聞いたんです

「閣下の考えていることと我々躍進日本を志している若いものとは意見の相違です」って。

 

 

その後、かけつけた医者が周囲に溜まる血で滑ってこけた

という話も残っているほどの惨状だったそうです。

一時は脈も絶えたとか。

 

そして、奇跡的に一命をとりとめたという・・

 

 

すごいですよね。

銃でこれだけ撃たれていながら、生還されたんです。

 

 

その後の鈴木貫太郎

昭和天皇から是非に、とお願いされ、

終戦直前に首相に就任したそうです。

 

77歳で耳が遠く、軍人出身の自分が政治に関わるべきでないとの理由で

断ったそうですが、天皇から頼まれ承諾することに。

昭和20年4月のことだそうです。

 

もはや日本の敗北は決定的・・

しかし、本土決戦を行うべきという意見もあり・・という状況で。

この戦争をどう終わらせるか、ということが問題になっていたそうです。

 

戦争を終結させたことにはいろんな人がいろんな役割を果たしたという研究があり

一概に誰がすごいとはいえないみたいですが、

この歴史秘話ヒストリアでは鈴木貫太郎が果たした大きな役割について語っていました。

 

ポツダム宣言を受け入れるか否か。

 

広島に原爆を投下され、この話を受け入れるか否か・・

そうしているうちに長崎にも原爆を落とされ・・

 

NHKでは言ってませんでしたが、

ここから、鈴木貫太郎への批判的な意見もあるようです。

(もっと早く決断していれば、長崎への原爆投下は避けられたのではと)

 

 

陸軍はポツダム宣言を受け入れるのに、日本から複数の条件を出すべき

という意見。

外務省を中心とした意見は「国体護持」のみを条件とするというもの。

 

最終的には昭和天皇の決断により、「国体護持」のみを条件として

ポツダム宣言を受諾することにした・・

 

というところへ、閣議を導いた

ここに鈴木貫太郎の功績はある、ということでした。

 

もともと明治憲法では、天皇に政治的判断の責任を負わせることはしない

というものだったそうですが、

(天皇は裁可をするだけで無答責、責任はない)

 

最終的に天皇の聖断を引き出した

これができたことが鈴木貫太郎の功績だということでした。

 

たしかにこれであれば・・陸軍も最終的には受け入れざるを得ないと。

 

 

 

ということで、

何がすごいって、

 

銃で4発も撃たれたのに生還

その後、日本を終戦に導く

 

まあ、功績や罪については各種意見があるとは思いますが・・

終戦に大事な役割を果たした人であることは間違いないと思います。

 

この人が導いたから、昭和天皇も行動できたのかもしれない。と。

昭和天皇も

「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ

このことが出来たのだと思っている」

と言っていたそうですし。

 

 

二・二六事件の時に、もしぜつめいしていたら・・

日本の終戦はもっとヒドイものになった可能性もあるんですね・・

 

銃で撃たれたのに生きていた

 

運が良い!すごいと思うと同時に、

生きなければいけない人だったんだなーという不思議なものを感じますね。

東京スカイツリー建設は予言されていた!江戸末期の歌川国芳の絵と1979年の小学生の絵

東京スカイツリーは、もはや東京でも1,2を争うランドマークとなっています。

誰でも知ってるスカイツリーですが・・

 

このスカイツリー、実は江戸時代から予言されていたのでは・・

という話があるのは知ってますか??

1/2000 東京スカイツリー&東京スカイツリータウン

 

★江戸時代末期にスカイツリーを予言した歌川国芳

 

まずはその絵をみていただきましょう。

 

http://odajorighee.tumblr.com/post/113211997091

 

この絵・・1831年?に描かれたそうです。

『東都三ツ又の図』

左側の塔のような建物・・これ、東京スカイツリーっぽくないですか??

 

これが予言ではと言われる理由は、この構図でいくと

その塔が描かれている場所が、現在スカイツリーがある場所とほぼ同じでは

と思われているからのようです。

 

へぇ〜〜

 

まあ、実際のところは井戸を掘る櫓?か何かではと言われていますが

偶然としても・・。

 

ちなみに、この歌川国芳さん、自分のしぬとしも言い当てたという話があります。

 

「東都御厩川岸之図」という作品で、右側にいる人の頭の傘に描かれた漢数字

http://odajorighee.tumblr.com/post/113212618776

ここに「1861番」という番号が記載されていますが

この「1861年」が歌川国芳さんの没年だそうです。

 

不思議な力を持っていた人なのかもしれないですよね。

 

 

★1979年の小学生が描いたスカイツリー

これは1979年(昭和54年)11月、『未来の墨田-21世紀の私たちの町を描こう』という公募展に寄せられた絵だそうです。


東京墨田区の小学生が描いた「未来の墨田」という絵に

なんとスカイツリーのような塔が・・(笑)

 

これ、しばらく墨田区が描いた人を探していたそうですが

見つかったらしいです。

数人の合作で「こうなったらいいね」で描いたとか。

 

そりゃあ・・そうですよね(笑)

というか、こどもはタワーとか塔が好きなので

「未来の」とか言われると、たいてい描いてしまいそうな気もします。

http://odajorighee.tumblr.com/post/113213136351/1979

 

が、たしかにすごいですよね。そんな気がなかったとしても。

 

 

小学生のみんな!

いまのうちに、自分の家の付近の未来の絵を描いて

タワーを描き込んでおこう!

 

そして、公募展に応募しよう!

 

そうすれば・・いつの日か

予言者として紹介される日が・・くるかも(笑)

日本で最初のイルミネーション・ライトアップは織田信長が安土城で行った

冬のイベントとしてもはや定番となったイルミネーション。

イルミネーションとは・・日本語でいうと「電飾」

つまり、電球の光であらゆる造形をつくり夜に楽しむことができる風景を作る

そういうのをイルミネーションというらしいです。

 

最近ではイルミネーションだけでなく、

3Dプロジェクションマッピングなんかも合わせて開催されることが多いですよね。

 

イルミネーションという言葉がいつからよく使われるようになったかは・・

ちょっと不明ですが、もとは「ライトアップ」とよく言われていたような。

 

「ライトアップ」という言葉だとイルミネーションよりももう少し幅が広がって

光を使って建物などを照明して、夜間の景観を演出する・・というような意味かと。

 

そのライトアップを日本で初めて、最初に開催したのが・・

たぶんあの有名な織田信長であるというのはご存知ですか??

 

織田信長―乱世の戦い (学研まんが人物日本史 安土時代)

 

 

★織田信長がイルミネーションを開催した場所

昔の話なので、「電飾」ではありません。

「火」「たいまつ」「提灯(ちょうちん)」を使ったものなので

イルミネーションというよりも「ライトアップ」と言った方が正確ではないかと思いますが。

 

その開催した場所とは・・あの有名な

安土城

と、安土城にあったお寺・摠見寺だそうです。

http://odajorighee.tumblr.com/post/113016131901

 

ちなみに電飾・・という意味だと、

1903年に大阪で開催された博覧会が初めてのイルミネーションではないか

と言われているみたいです。

 

★どんなライトアップだったのか

http://odajorighee.tumblr.com/post/113015881506

イメージ図です。

きっと、こんな感じですごかったんでしょう!

 

 

ルイス・フロイスの「日本史」に記録されているそうです。


「いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせた」

 

また、「信長公記」の1581年7月15日では、

「七月十五日、安土城の天主閣および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江に舟を浮かべさせて、それぞれに松明を灯させた。城下一帯が明るく、灯は水に映って、言いようもなく面白く、見物の人々が群れ集まった。」

 

城下の家などの火や光・灯りになるものは全て消させたそうです。

そうして暗闇の中に、ライトアップされた安土城と摠見寺を浮かび上がらせたとか。

これは・・幻想的だったでしょうねぇ。。

今みたいにLEDでいろんな色があって・・というのではなく

火の光、オレンジ色の統一された光で。

また、安土城は琵琶湖岸にあったので、琵琶湖の湖面に映る城の姿も

相当キレイだったようです。

城の天守だけでなく、その城の中の道も含めてのライトアップ。

ちょうちんを使って、また琵琶湖岸ですかね?船上でも松明(たいまつ)を炊いたとか。

その後、安土城は燃えてなくなってしまうのですが・・それを予言していたかのような・・というようにもとることができますよね。

でもこのライトアップを観た人たちはみんな、これを開催した信長を天下人として

認識したでしょうし、これまでみたことないようなものを創りあげたある意味神に近い

存在として認識したかもしれません。

だから、まさか信長の時代に終わりが来るとは・・この時は誰も思わなかったかと。

 

 

★安土城は「みせる城」だった

安土城は「みせる城」だったという話があるみたいです。

というのも、残っている資料や遺構を調べてみるとどうやら防御力が高い城ではないと。

つまり、戦を想定してない城だったということなんですね。

じゃあ何のためかというと、この城をみせて「すごい」と思わせる

というような政治的な利用のされ方を考えて作られたのではないかと。

 

また、この安土城を築城する頃には信長の領土はかなり広く

安土まで攻めて来られる、ということは想像する必要がなかった

というのもあるかもしれません。

 

頂上付近まで一直線に広い道が続いてますからね。

攻められることを想定してたらありえない(笑)

 

とにかく「みせる城」だからこそ、

徹底的に「みせる」ためにはどうすれば良いか、

を考えて、このようなライトアップを行ったのではないかと思われます。

 

今の人がもしこの方法でライトアップされた安土城をみてもきっと

「信長はすごい」と思うでしょうし。

 

 

★いつライトアップしたのか?

天正9年(1581)7月15日(現在の暦で1581年8月24日)のお盆の日

だそうです。

「お盆の日」であったのは・・

やっぱりお盆の日には提灯等をなくなった方への送り火として飾る

ご先祖様を供養する・・という風習があったからなのかなと思いますが。

こういう、先祖を想うような祭祀さえも天下人である自分が管理するのだ

というアピールではないかという話もあるみたいです。

 

いまから400年以上も前に、こういうことをやろうと考えたことがすごいですね。

それまでそんな風習があったわけではないですから。

 

 

★集客は

まあ「集客したい!」という意向があったかは不明ですが。

一部の資料だと、京や大坂からも見物客が来たという話も。

 

すごい効果ですよね。

 

ちなみに、人が集まったと聞くと・・儲かるの??みたいなことを考えたくなりますが(笑)

 

このライトアップで収入があったかどうかはわからないんですけど

信長が安土城でやったらしいことで面白い話が。

 

1582年(天正十年)の正月に、安土城の見学会を行って

参加する人から1人永楽銭100文(現在のお金で15,000円ほど?)の拝観料を取ったとか(笑)

人が多すぎて石垣の一部が壊れるほどだったそうです。

しかも、信長自身が入口で拝観料を徴収したという・・

 

これは何なんでしょうね?

まあお金もらって嬉しいかもですけど、

信長ほどの人が1人1人から金をもらっても「はした金」でしかない気が(笑)

お金を払わせるという行為自体に意味があったんでしょうね。

 

15,000円という金額は、中に入るだけだとすると高過ぎる気もするけど・・

まあそれだけ価値があるんだぞ!と認識させるためパフォーマンスだったんですかね。

自分は神だからお賽銭をよこせ、そういうことかもしれないですね。

 

 

★信長はやっぱりすごい

その当時の人が考えもしなかったことを実行している

やっぱり天才的ですよね。

現代にいてもきっと、能力を発揮したんじゃないかと思われます。

 

まあこれが自分で考えたものではなく

たとえば外国からきた誰かから「ライトアップっていうのがあって」という話を聞いていたとしても

それに価値があって、周囲からどのような評価を受けるのかを予想して

実行できることがすごいんだと思います。

テレビの歴史番組一覧、NHK・民放、日本史・世界史

昔から日本史が好きで、小中学生の頃はよく

歴史関係の本を読んでました。

 

とくに日本史好きで、世界史はさほど興味はないんですが

例えば中国なんかは日本史にもけっこう影響があるので

少しは本を読んだりしてました。

 

ゲームも、小学生の頃から

信長の野望

とか

三国志

ジンギスカン白き狼と蒼き牝鹿

なんかを好んでやる、一風変った子だったと思います(笑)

 

 

歴史秘話ヒストリア オリジナル・サウンドトラック3

世界史も・・このゲーム、ジンギスカンの流れでっていうぐらいですかね。

とにかく日本史は大好きです。戦国時代にかかわらず。

 

ただ、高校生になって部活が忙しくなって・・

大学生になりバイトが忙しくなり・・

としているうちに、本はなかなか読まなくなってしまいました。

 

けど、日本史好きは変わらず。。

ということで、たまーにテレビで歴史関係の番組がやってるとしっかり観るという。

 

歴史関係のテレビ番組、たぶんある一定数は好きな人がいるので

なくなりはしないものの、そんなにレギュラー化しないんですよねー(笑)

だから出会える可能性が低い。

また、見逃したら・・すごく悔しい。

 

ということで、数は少ないけど、ほぼ必ず観られる

歴史関係の番組をピックアップして一覧にすることにしました!

 

この記事公開時点の情報です。

基本的には、現在放送中のものをご紹介したいと思っていますが

終わってるものなんかもあるかもしれませんのでご容赦ください。

 

NHKでけっこう歴史番組は充実してるんですが

民放にもいくつかは存在してますよ!

 

 

テレビの歴史番組一覧

 

歴史秘話ヒストリア(NHK総合・水曜22:00)

歴史好きの人ならこの番組は知っていることでしょう。

45分間ですっきりといろいろなことを教えてくれます。

以前は「その時歴史が動いた」という番組でしたが、良いところはそのまま受け継いでいると思います。

大河ドラマをつくっているNHKですから、大河ドラマ連動の話は必ずありますが

これをみるとより大河ドラマが楽しめると思います。

案内役の渡邉アナウンサーが着物だったり、その時取り上げた題材にちなんだ格好で登場しています。

 

・ザ・プロファイラー∼夢と野望の人生∼(NHK−BSプレミアム・水曜21:00)


ザ・プロファイラー ~夢と野望の人生~ - NHK

V6の岡田准一さんが司会。

これは歴史物・・ではないかもしれないんですけど、歴史上の人物に焦点があてられることも多く、みています。

日本の人から外国の人まで、あとたまに現代に近い人の場合もあります。

ボブ・マーリーとか(笑)

人物に焦点をあてて人物像にせまるもの。

岡田准一さんがどう感じるのか・・というところから、その人物のことをよく知る調べている人やファンな人をゲストに迎え、トークを交えながら人物像にせまります。

 

・歴史にドキリ(NHK-Eテレ・水曜9:20)


歴史にドキリ [社会 小学校6年生]|NHK for School

これ、小学校6年生社会のための番組だそうです(笑)

中村獅童が、その時取り上げる人になりきって、なぜか歌って踊って学ぶという(笑)

今日見返してみたら、夏目漱石になって歌って踊ってました(笑)

10分間の番組なんですけど、さっくりと知るには良いかと。

2014年度は再放送ばっかりだったみたい。

 

・先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)(NHK-Eテレ・火曜23:00)


先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) - NHK

放送時間帯から考えて、教育テレビでありながら、大人向きの番組だと思います。

知恵泉は、松平信綱のアダ名・知恵伊豆からきてるというのは

歴史好きならすぐわかりそう。

個人経営の居酒屋を舞台に繰り広げられます。

現代の問題は先人たちが取り組んできた課題と通じている・・というテーマで。

ぼくが最近みた回は北条早雲の組織づくりの話をやってて、ゲストでライフネット生命保険の創業者の方が出ていました。

 

・謎解き!江戸のススメ(BS-TBS・月曜22:00)


謎解き!江戸のススメ

MCは片岡鶴太郎と草野満代。

江戸時代にフォーカスした歴史番組。

CGというか、コンピュータアニメでその事件や状況が再現される

というのが特徴。

 

・英雄たちの選択(NHK−BSプレミアム・木曜20:000)


英雄たちの選択 - NHK

英雄と呼ばれる人の考えたことを想像して

歴史の岐路となったような選択をした際の英雄の葛藤を

専門家の考証にもとづいて復元。

別の選択肢をとった場合、等をアニメでシミュレーションする。

ナレーションは俳優の松重豊さん。

あなたなら、この時、どういう選択をしたか?

を専門家の話で疑似体験。

 

・ファミリーヒストリー(NHK総合・金曜22:00)


ファミリーヒストリー - NHK

有名人の親や先祖が、どこでどのように生きてきたのか

を調査して、その本人にみてもらうという番組。

歴史番組・・かと言われると違うんですけど、

先祖にさかのぼって調べてみるって・・ちょっとワクワクしませんか?

自分も先祖の名前・・4代前ぐらいまでみたことがありますが

へぇ〜こんな名前だったんだ〜と。

また、こういう番組で選ばれる人たちですから、やはりそれなりの歴史がある

一族の方なんですよね。

すごく有名な人の子孫だったり。

そんなに古い時代の話はでてきませんが、リアルな感じがして好きです。

 

・タイムスクープハンター(NHK総合)

もしかしてすでに放送終了してる?

不定期に始まってはシリーズで何回か放送して・・を繰り返しています。

2015年4月からは火曜日25:30-26:00に再放送枠が設けられるらしいです。

要潤さんの代表作でしょう(笑)

歴史の有名なものというよりも、庶民の生活とか風習とかそういうものを

ジャーナリスト・沢嶋雄一がレポートしてくれます。

女優の杏さんも、この番組に出始めの頃はそんなに有名ではなかったような(笑)

 

 

過去にも本当にいろいろ

テレ東とかNHKでも、その他民放でも

時によってはゴールデンタイムにも歴史番組があったんですが

やっぱりあんまり長くは続かないんですよね・・

 

というのも、作るのが大変なんじゃないかと想像・・

 

中途半端なことを言うとクレーム入りそうですし

かといって浅すぎる内容だと全くおもしろくない。。

 

また、人気のある題材を取り上げるとなると

ある程度限られますからね。

 

ということで、次々番組が入れ替わってもしかたないのかなと。

 

 

とりあえず、今放送している歴史番組は

予約録画してみてください!

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